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溝口信勝から見た春日大社
寛文10年(1670年)2月28日に奈良奉行に転じ、大和国平群郡のうちにおいて500石の地を加増される。10月28日には従五位下豊前守に叙任し、同月越後国の知行地を大和国平群郡内に移される。寛文11年(1671年)6月28日、春日社の遷宮にあたり、神鹿の横行に町人が困却している旨を興福寺に申し入れ、角の伸びている内は鹿を網の中に囲い入れることとし、翌年からは毎年角切りが行われるようになった。また延宝6年(1678年)には鹿殺しの犯人を処刑しようとした興福寺に対してその引き渡しを拒否し、以後奉行所で裁くことが例となった。これらの事蹟は中世以来の興福寺の奈良支配を克服する画期となったと評価されている。(溝口信勝 フレッシュアイペディアより)
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カスガマイシンから見た春日大社
1960年代に梅沢浜夫らが奈良県の春日大社の土壌サンプル中から発見した放線菌(Streptomyces kasugaensis)から産出される抗生物質で、採取地からカスガマイシンと名付けられた。イノシトール、アミジンカルボン酸とアミノ糖の一種のカスガミンから成り、リボソームのmRNAと30Sサブユニットの相互作用を阻害することにより、菌のタンパク生成を抑制する。作用機序が解明されたのは2006年と比較的最近であり、今後は医療用抗生物質への応用などが期待される。動植物に対しての安全性は比較的高く、ラットへ経口投与した場合の半数致死量は2,200mg/kgである。(カスガマイシン フレッシュアイペディアより)
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妙正寺 (杉並区)から見た春日大社
当寺院は、文和元年(1352年)に下総国(現在の千葉県)の中山法華経寺第3世・日祐上人によって妙正寺池のほとりに堂を建て、法華経守護である天照大神・八幡大神・春日大社など三十番神を勧進し奉ったのが始まりであるといわれている。正保3年(1646年)に社殿を再建し、その三年後の慶安2年1649年に徳川三代将軍・徳川家光が鷹狩りの際に立ち寄ったのをきっかけに葵の紋幕と朱印地・五石を賜り御朱印寺として有名になった。本堂は天保元年(1830年)に焼失したがその後の天保3年(1832年)に再建し、昭和6年(1931年)に改築され現在に至っている。本堂には本尊のほか安産に霊験ある鬼子母神像(かつて江戸城大奥にあったもの)やかつて妙正寺池の弁天島(池に浮かぶ小島)にあった弁財天が祀られている。(妙正寺 (杉並区) フレッシュアイペディアより)
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善慶から見た春日大社
次いで現存するのはアジアソサエティ蔵の地蔵菩薩立像(もと東京・個人蔵)で、この像も像内に長文の墨書がある。そこには像の制作年代を示す記載はないが、結縁者として名を列ねる僧の僧位から、元仁2年-嘉禄2年(1225年-1226年)の造像とわかる。東京国立博物館に明治時代から収蔵される文殊菩薩立像は、作者・制作年代を明らかにする資料を欠くが、作風や像高が前述の十一面観音像および地蔵菩薩像に近いことから、善円の作と推定されている。以上の3像は、春日社(春日大社)の四所明神と若宮の本地仏5体一具として作られたうちの3体が残ったものとする説もある。(善慶 フレッシュアイペディアより)