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時天空慶晃から見た水入り
その間に2002年7月場所に前相撲から初土俵。同期7人の中で1番目に出世を決めた。翌場所から3場所連続全勝優勝(三段目では同部屋の豊ノ島を優勝決定戦で下している)。板井の26連勝に次ぐ序ノ口からの22連勝を記録した。柔道経験を活かして二枚蹴りや内掛けといった足癖を見せた。序二段では優勝決定戦を含め8番のうち6番の決まり手が足技(掛け手)であった。2004年3月場所には十両昇進。十両を2場所で通過し、7月場所には初土俵から所要12場所の史上最速タイ(当時)で新入幕を果たした。2005年5月場所では相手の安馬(後の日馬富士)の背後をとって、柔道のすくい投げを思わせる豪快な足取り(モンゴル相撲のホンゴトフという技)を決めて勝ち、館内を沸かせた。翌場所には逆に足を取られたものの1分近くその体勢で耐えたが、惜しくも敗れた。同年9月場所はまたも同じく安馬戦で、6分半を超える水入りの相撲をとったが、敗れた。入門してから入幕後しばらくした頃までは稽古熱心な力士として知られ、後年本人は稽古をやればやるほど結果となって成果が表れたと若手時代を振り返っている。特に豊ノ島との稽古は喧嘩のように激しかったと言い、豊ノ島との三段目優勝決定戦当日の朝は時津風が「もうやめなさい」と掛け声を出すまで三番稽古で火花を散らしていた。(時天空慶晃 フレッシュアイペディアより)
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時天空慶晃から見たブフ
モンゴル相撲の小結(「ナチン」格)の父親の息子として生まれる。ウランバートル市内で生まれ育つが、取組前の場内アナウンスでは父親の出身地であるトゥブ県アルタンボラグ村を自身の出身地としていた。若年時には、ウランバートル市内の柔道クラブで、後の朝青龍、朝赤龍、日馬富士らと稽古を重ねた。モンゴル国立農業大学に進学後、卒業を待たずに2000年4月スポーツ交流留学生として、東京農業大学国際食料情報学部生物企業情報学科に転入。同学では相撲部に入部し、転入初年度に(日本の)全国学生相撲個人体重別選手権大会(100kg未満級)で優勝した。本来、来日して東京農大に転入の際には、農政・食糧技術を学士修了してモンゴルへ帰国し、母国モンゴル国内の公立学校の教職につく予定だったが、大相撲で活躍する朝青龍、朝赤龍らの姿を見て次第に興味を持ち、角界に入るためには入門時の年齢制限である23歳も迫っていたため、同学在学中のまま3年次に時津風部屋へ入門した。入門後の就学については夜間主コースに転籍し、2004年3月同学を卒業した。四股名は入門の際に、東京農業大学相撲部の安井和男監督(当時)が付与したもので、時津風部屋の「時」と、モンゴルの広い空のイメージにちなんだ「天空」の合作とされる。(時天空慶晃 フレッシュアイペディアより)