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羽黒山政司から見た時津風部屋
優勝回数は7度だが、長く上に双葉山が存在して同部屋であるだけに直接対戦が無かったことと、年2-3場所時代の力士である上に、最盛期に戦後の混乱で場所の開催もままならなかった時期のあること、そしてアキレス腱断裂などで随分損をしており、実質的に歴代横綱の中でもA級の強豪として評価する声が少なくない。加えて当時は優勝決定戦が無い代わりに同点者は上位優勝という制度があり、これで優勝を逸したこともあった(1941年1月場所)。32連勝は当時双葉山の69連勝と36連勝に次いで昭和以降3位(現在は11位タイ)、敗戦直後の時期に達成した記録であり数字以上の評価がなされている。太平洋戦争や双葉山道場立ち上げの影響により最大70人近くいた所属力士数が一時期20人前後にまで減った立浪部屋の勢いを名寄岩と共に取り戻した力士でもある。(羽黒山政司 フレッシュアイペディアより)
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鏡里喜代治から見た時津風部屋
1942年に双葉山相撲道場が発足した際に、粂川が鏡里を含む弟子全員を双葉山に譲ったために移籍した。移籍直後の1944年9月に応召されて弘前第69連隊に入隊し、ある日に呼ばれて双葉山 - 東富士欽壹戦の実況放送を聞かせてくれたが、この取組で師匠となった双葉山が敗れたのを聞いて、涙を流しながら「打倒東冨士」を誓った。1949年10月場所は前頭筆頭まで番付を上げ、東富士欽壹から金星を挙げて恩を返す。この場所は12勝3敗の好成績で、三賞制定後初の複数受賞(殊勲賞・敢闘賞)で1950年1月場所から関脇へ昇進。1950年5月場所から翌1951年1月場所に駆けて9勝、8勝、11勝という成績を挙げ、大関へ昇進した。1950年代から1970年代にかけて一応の目安として「直前3場所合計30勝前後」という昇進基準が存在していたが、その中でも3場所合計28勝という成績での昇進は非常に幸運なケースと言える。(鏡里喜代治 フレッシュアイペディアより)
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麒麟児和春から見た時津風部屋
父は国鉄の駅長を務めていたので夜勤が多く、病気がちな母を助けるために姉と二人でよく家事を手伝っていたという。小学2年生から柔道を行っていたが、中学入学時に90キロに達した体格を生かして柔道の大会で活躍したため相撲を志すようになったという。中学2年生のときに力士を志して両国へ出てきたが立浪部屋(羽黒山)に断られ、時津風部屋に行くと時津風(双葉山)は不在、3つめに訪れた二所ノ関部屋で二所ノ関(佐賀ノ花)が入門を認めてくれた。1967年5月場所で初土俵。幕下時代には生活態度を巡って兄弟子と口論になって反発した末に一旦髷を切って脱走したが直後に二所ノ関から寛容な態度で説得され、これを機に熱心に稽古をするようになった。1973年の9月場所と11月場所、幕下で2場所連続全勝優勝で十両に昇進。本名の「垂沢」から、兄弟子の大関・大麒麟が若手時代に名乗っていた四股名である「麒麟児」に改名。ちなみに十両昇進年齢が20歳以下なら「麒麟児」、21歳以上なら「海山」を名乗らせるつもりだったらしい。(麒麟児和春 フレッシュアイペディアより)