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  • 蔵玉錦敏正

    蔵玉錦敏正から見た時津風部屋時津風部屋

    引退後の約20年間は鏡山部屋付きの親方として後進を指導していたが、年寄・枝川襲名時に同門の時津風部屋に移籍している。現役時代から元・双津竜の15代時津風とは親しくしており、2007年の時津風部屋力士暴行死事件で15代時津風の処分が取りざたされた際には錦島親方としてマスコミにも対応し、解雇後の本人の様子などを報道陣に説明しているニュース映像も見られた。また、時津風の後継者となった16代時津風の引退記者会見にも同席していた(前師匠が解雇処分で、同席できなくなったため)。蔵玉錦敏正 フレッシュアイペディアより)

  • 大坂相撲

    大坂相撲から見た時津風部屋時津風部屋

    なお、時津風部屋は名跡は大坂相撲に由来するが東京相撲系の双葉山(12代時津風)が興した部屋で系譜上のつながりはない。双葉山が名跡を取得した際に「それは大坂相撲の評判の悪い親方の名跡だから」と諫める者があったが「年寄名跡は皆同じ」と答えたという逸話がある。大坂相撲 フレッシュアイペディアより)

  • 羽黒山政司

    羽黒山政司から見た時津風部屋時津風部屋

    優勝回数は7度だが、長く上に双葉山が存在して同部屋であるだけに直接対戦が無かったことと、年2-3場所時代の力士である上に、最盛期に戦後の混乱で場所の開催もままならなかった時期のあること、そしてアキレス腱断裂などで随分損をしており、実質的に歴代横綱の中でもA級の強豪として評価する声が少なくない。加えて当時は優勝決定戦が無い代わりに同点者は上位優勝という制度があり、これで優勝を逸したこともあった(1941年1月場所)。32連勝は当時双葉山の69連勝と36連勝に次いで昭和以降3位(現在は11位タイ)、敗戦直後の時期に達成した記録であり数字以上の評価がなされている。太平洋戦争や双葉山道場立ち上げの影響により最大70人近くいた所属力士数が一時期20人前後にまで減った立浪部屋の勢いを名寄岩と共に取り戻した力士でもある。羽黒山政司 フレッシュアイペディアより)

  • 鏡里喜代治

    鏡里喜代治から見た時津風部屋時津風部屋

    1942年に双葉山相撲道場が発足した際に、粂川が鏡里を含む弟子全員を双葉山に譲ったために移籍した。移籍直後の1944年9月に応召されて弘前第69連隊に入隊し、ある日に呼ばれて双葉山 - 東富士欽壹戦の実況放送を聞かせてくれたが、この取組で師匠となった双葉山が敗れたのを聞いて、涙を流しながら「打倒東冨士」を誓った。1949年10月場所は前頭筆頭まで番付を上げ、東富士欽壹から金星を挙げて恩を返す。この場所は12勝3敗の好成績で、三賞制定後初の複数受賞(殊勲賞・敢闘賞)で1950年1月場所から関脇へ昇進。1950年5月場所から翌1951年1月場所に駆けて9勝、8勝、11勝という成績を挙げ、大関へ昇進した。1950年代から1970年代にかけて一応の目安として「直前3場所合計30勝前後」という昇進基準が存在していたが、その中でも3場所合計28勝という成績での昇進は非常に幸運なケースと言える。鏡里喜代治 フレッシュアイペディアより)

  • 双大竜亮三

    双大竜亮三から見た時津風部屋時津風部屋

    双大竜 亮三(そうたいりゅう りょうぞう、本名:高橋 亮三(たかはし りょうぞう)、1982年7月26日 - )は、福島県福島市出身の元大相撲力士。時津風部屋に所属していた。現役時代の体格は身長179cm、体重122kg、血液型はA型。最高位は西前頭15枚目(2013年3月場所)。双大竜亮三 フレッシュアイペディアより)

  • 時津風一門

    時津風一門から見た時津風部屋時津風部屋

    1941年に横綱・双葉山がその実績が評価されて現役力士のまま弟子の育成ができる二枚鑑札を許可され、双葉山は直弟子10人を率いて立浪部屋から分家独立して双葉山相撲道場を設立した。双葉山は1945年11月場所限りで現役を引退して年寄・12代時津風を襲名すると同時に双葉山相撲道場を時津風部屋と改称したが、そこに江戸時代以来250年の伝統を持つ名門である伊勢ノ海部屋と、双葉山道場に合併されてから再興された井筒部屋が合流して時津風一門が形成された。時津風一門 フレッシュアイペディアより)

  • 麒麟児和春

    麒麟児和春から見た時津風部屋時津風部屋

    父は国鉄の駅長を務めていたので夜勤が多く、病気がちな母を助けるために姉と二人でよく家事を手伝っていたという。小学2年生から柔道を行っていたが、中学入学時に90キロに達した体格を生かして柔道の大会で活躍したため相撲を志すようになったという。中学2年生のときに力士を志して両国へ出てきたが立浪部屋(羽黒山)に断られ、時津風部屋に行くと時津風(双葉山)は不在、3つめに訪れた二所ノ関部屋で二所ノ関(佐賀ノ花)が入門を認めてくれた。1967年5月場所で初土俵。幕下時代には生活態度を巡って兄弟子と口論になって反発した末に一旦髷を切って脱走したが直後に二所ノ関から寛容な態度で説得され、これを機に熱心に稽古をするようになった。1973年の9月場所と11月場所、幕下で2場所連続全勝優勝で十両に昇進。本名の「垂沢」から、兄弟子の大関・大麒麟が若手時代に名乗っていた四股名である「麒麟児」に改名。ちなみに十両昇進年齢が20歳以下なら「麒麟児」、21歳以上なら「海山」を名乗らせるつもりだったらしい。麒麟児和春 フレッシュアイペディアより)

  • 蒼樹山秀樹

    蒼樹山秀樹から見た時津風部屋時津風部屋

    蒼樹山 秀樹(あおぎやま ひでき、1970年2月18日 - )は滋賀県彦根市出身の元大相撲力士。時津風部屋所属。現在は年寄・枝川。本名は寺木秀樹(てらき ひでき)。身長181cm、体重153kg。最高位は西前頭筆頭(1996年7月場所、1998年5月場所)。得意技は突っ張り、押し。趣味はパチンコ、テレビゲーム、音楽鑑賞。愛称にはテラーキ、アオちゃん、血液型はB型。蒼樹山秀樹 フレッシュアイペディアより)

  • 牧本英輔

    牧本英輔から見た時津風部屋時津風部屋

    牧本 英輔(まきもと えいすけ、1941年8月13日 - )は、1960年代から1980年代にかけて大相撲の時津風部屋に所属していた、熊本県宇土市長浜町出身の力士である。本名は四股名と同じ。新十両時の四股名は、轟 亘(とどろき わたる)。身長181cm、体重150kg。得意手は左四つ、寄り。最高位は東前頭12枚目(1972年9月場所)。角界関係者からは「マキさん」と親しまれていた。牧本英輔 フレッシュアイペディアより)

  • 粂川部屋

    粂川部屋から見た時津風部屋時津風部屋

    昭和12年(1937年)12月に親方が亡くなると、鏡岩が二枚鑑札で部屋を継いだ。昭和14年(1939年)5月限りで現役を引退、年寄専任となった。この頃には、二所ノ関と粂川との対戦は組まれていた(当時の取組は系統別総当たり制)。鏡岩は同時に大関に昇進した双葉山と仲が良かったため、昭和16年(1941年)12月に双葉山が現役で双葉山道場を興したときに、粂川部屋を閉鎖し、十両布引国太郎をはじめ所属力士全員を譲って、自分は部屋付きの親方となった。このとき移籍した下位力士の中に、後の第42代横綱鏡里喜代治、関脇不動岩三男がいた。粂川部屋 フレッシュアイペディアより)

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