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鬼ヶ谷才治から見た時津風部屋
1855年4月19日(旧暦3月3日)に伊予国宇摩郡(現:愛媛県四国中央市)で生まれた。当初は時津風部屋(大坂相撲)に入門し、本場所に登場するまでの巡業では愛媛潟と名乗った。1886年に梅ヶ谷藤太郎 (初代)から勧誘されて東京相撲に加入することが決まると、東京相撲では雷部屋に所属し、同年1月場所に二段目(現:幕下)格付出で東京相撲の初土俵を踏んだ。1887年1月場所で新入幕を果たすと、際立った好成績を残すことは無かったが地道な努力を重ね、1891年5月場所で小結昇進、この場所を5勝3敗1分で勝ち越して翌場所も小結を務めた。その後は平幕を長く務め、1904年1月場所では6勝2預2休の好成績を挙げ、優勝同点に相当する成績を残した。(鬼ヶ谷才治 フレッシュアイペディアより)
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鈴木浩平 (空手家)から見た時津風部屋
この頃、「従来の相撲流の稽古だけでは飽き足らず、ほかの格闘技の練習方法も採り入れて独自の稽古体系をつくりあげたい」という考えで、大相撲の時津風部屋に所属する十両の松乃山が本部道場に通ってきていた。松乃山は身長180センチメートル、体重110キログラムの体格で、両足を180度に開脚して胸を床につけることができる柔軟性を持ち、サンドバッグを蹴ると、半分に折れ曲がっていた。当時、指導を主に任されていた岸信行や三浦美幸などは松乃山の蹴りこみを見て「ロウ先輩(盧山初雄)の三日月蹴りだって、ああはならない」「松乃山が組手するレベルまで上がってきた時に誰が相手するのか・・・」と話し合っていた。やがて松乃山が組手をするようになり、緑帯・茶帯連中を重量級の蹴りで飛ばし、黒帯は松乃山を翻弄することは出来てもKOすることはできなかった。そんなある日、鈴木が松乃山と組手をした。松乃山は相撲仕込みの出足の鋭さで間合いをつめるが、鈴木は円を描くように回り込みながら、松乃山へローキックを連発する。松乃山はこれを嫌がり、再び鈴木に突進してきて前蹴りを放つが、鈴木はやはり円を描いて捌き、左ハイキックを松乃山の顎に入れた。松乃山は鈴木の足元にねじれた格好で崩れ、鈴木が松乃山を倒した最初の黒帯となった。(鈴木浩平 (空手家) フレッシュアイペディアより)