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  • 新日本プロレス

    新日本プロレスから見た木戸修木戸修

    1月13日、新日本プロレスリング株式会社を設立。メンバーはアントニオ猪木、魁勝司、山本小鉄、柴田勝久、木戸修、藤波辰巳、「テレビが付くまで」との条件付きで豊登、選手兼ブッカーとしてカール・ゴッチ、レフェリーのユセフ・トルコが参加。新日本プロレス フレッシュアイペディアより)

  • 前田日明

    前田日明から見た木戸修木戸修

    1985年12月6日、藤原喜明、木戸修、高田伸彦(現:高田延彦)、山崎一夫らと共に業務提携という形で新日本に復帰。前田はリング上で「1年半UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」とマイクアピールを行った。前田日明 フレッシュアイペディアより)

  • 木村健悟

    木村健悟から見た木戸修木戸修

    新日本プロレス創世期は、創設組の猪木派(山本小鉄、魁勝司、柴田勝久、木戸修、藤波辰巳とその後の入門組の浜田広秋、荒川真、藤原喜明、栗栖正伸ら)と合流組の坂口派(永源遥、木村、小沢正志、大城大五郎)の派閥があり、それによって選手の売り出し方に差が出ていた。若手の登竜門カール・ゴッチ杯は第1回優勝者が藤波、準優勝が小沢。第2回優勝者が藤原、準優勝が木村。第3回は若手のリーグ戦にベテランの魁が入り優勝、木村は準優勝に終わり、すべて猪木派が優勝している。木村は海外遠征に出るのも藤波より約3年遅く、また4年も後輩の佐山サトルよりも遅かった。藤波はニューヨークでWWWFジュニアヘビー級王座を獲得し、金曜8時のゴールデンタイムでテレビ放映されてシンデレラボーイとなったが、木村がメキシコでNWA世界ライトヘビー級王座を獲得しても大きくは報じられず、凱旋帰国第1戦もノーテレビであった。木村健悟 フレッシュアイペディアより)

  • UWF

    UWFから見た木戸修木戸修

    新日本は長州が率いる維新軍との軍団抗争が激化。純プロレス路線をさらに推し進めるなかUWFは1984年7月23日と24日、後楽園ホール大会「UWF無限大記念日」に引退していた佐山聡がザ・タイガーとして新日本を退団後に設立したタイガージム(現:スーパータイガージム)でインストラクターを務めていた山崎一夫を引き連れて参戦することになる。大会が成功した後も一部のマスコミやファンの強力なバックアップもあり山崎共々、継続参戦することになり8月4日に正式に入団を果たす。後に新日本を退団した木戸修も加わることになり基本となる陣容はこれで固まった。なお佐山は復帰の条件として一部フロントの追放を挙げ、これにより新間は正式にUWFから手を引いた(この時、新間に追従する形で浜田も離脱)。彼らはカール・ゴッチの門下生であったことからゴッチの娘婿である空中正三も選手兼レフェリーとして参加。ゴッチ自身も居住地のフロリダからスコット・マギーやジョー・マレンコ、ヨーロッパからジョニー・ロンドスやピート・ロバーツなど外国人選手のブッキング及び若手選手の指導を協力。ここにUWFの目指す「レスリング=ゴッチ流ストロングスタイル」という一応のラインができあがる。UWF フレッシュアイペディアより)

  • カール・ゴッチ

    カール・ゴッチから見た木戸修木戸修

    1972年1月の新日本プロレス設立に選手兼ブッカーとして助力。1972年3月から1974年8月にかけて、アントニオ猪木と5回対戦し、3勝2敗。1973年10月ルー・テーズをパートナーとしてアントニオ猪木&坂口征二組と3本勝負で対戦し、1-2で敗れる。その後、フロリダ州タンパ市の「ゴッチ道場」において、藤波辰巳、木戸修、藤原喜明、佐山聡、前田日明らプロレスラーを数多く育成する。1982年1月1日後楽園ホールにおいて藤原喜明とエキシビション・マッチで対戦、同年1月8日後楽園ホールにおいて木戸修と対戦したエキシビション・マッチが、プロレスラーとして最後の試合である。カール・ゴッチ フレッシュアイペディアより)

  • ケーフェイ (書籍)

    ケーフェイ (書籍)から見た木戸修木戸修

    新日本プロレス時代、あれだけ負けつづけた藤原と木戸が、シューティングをやりだしたとたん、勝ちだしたということを、キミは理解しているか?ケーフェイ (書籍) フレッシュアイペディアより)

  • 1950年のスポーツ

    1950年のスポーツから見た木戸修木戸修

    2月2日 - 木戸修(神奈川県、プロレス)1950年のスポーツ フレッシュアイペディアより)

  • 毒霧

    毒霧から見た木戸修木戸修

    武藤が語るところによると潔癖症としても知られる木戸修がムタから毒霧を受けた際に武藤は3日間口を利いてもらえなかったらしい。毒霧 フレッシュアイペディアより)

  • ブッチャー・バション

    ブッチャー・バションから見た木戸修木戸修

    1973年にモーリスとのコンビを解消。1974年1月にはビル・ワットらと共に国際プロレスに再来日している。1975年はニューヨークのWWWFに登場、ブルーノ・サンマルチノのWWWFヘビー級王座に挑戦し、7月12日のMSG定期戦ではアンドレ・ザ・ジャイアントとのシングルマッチも組まれた。1976年4月には新日本プロレスに初参加し、第3回ワールド大リーグ戦に出場したが、中堅クラスの星野勘太郎や木戸修に白星を献上するなど戦績は振るわなかった(キラー・カール・クラップの乱入もあって優勝者の坂口征二からはリングアウト勝ちを拾っている)。以降はロサンゼルスやフロリダを転戦し、1978年のWWWF参戦を最後にしばらくリングから離れた。ブッチャー・バション フレッシュアイペディアより)

  • 北沢幹之

    北沢幹之から見た木戸修木戸修

    1981年4月3日、後楽園ホールで永源遙とタッグを組んで木戸修&星野勘太郎組と対戦、この試合を最後に現役を引退した。北沢幹之 フレッシュアイペディアより)

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