-
日本プロレスから見た木戸修
2局放送体制となって、経営は引き続き好調を維持していたが、一部幹部に横領などの疑いがもたれ始める。一部の経営陣について「会社の金庫を勝手に開けて、そこから札束を鷲掴みにして、そのまま毎夜、銀座のバーに繰り出す」といった逸話がある。1971年に、これを憂えた馬場・猪木ら選手は、幹部に経営改善要求を突きつける。しかしその結果、会社乗っ取りを図ったとして猪木が除名された(詳しい経緯は上田馬之助の項を参照のこと)。猪木は日本プロレス脱退組である山本小鉄、柴田勝久、北沢幹之(魁勝司)、木戸修、藤波辰巳、レフェリーの ユセフ・トルコと共に1972年3月に新日本プロレスを創立し、日本プロレス退団後は東京プロレスや国際プロレスに参戦していた豊登も新日本を助けるべく参戦した。日本プロレスは、退団組の猪木や豊登などが参戦した新日本プロレスに対しても国際プロレス同様に外国人招聘ルートなどで妨害をかけた。(日本プロレス フレッシュアイペディアより)
-
フィッシャーマンズ・スープレックスから見た木戸修
日本での初公開は1982年10月8日、新日本プロレスの後楽園ホール大会において、小林邦昭が海外遠征からの凱旋試合(木戸修とタッグを組んでのジョニー・ロンドス&シルバー・ハリケーン組戦)で使用。技名は技を仕掛けるフォームが漁師が網を投げる姿をイメージさせることから実況アナウンサーの古舘伊知郎が命名。(フィッシャーマンズ・スープレックス フレッシュアイペディアより)
-
ブラック・キャット (プロレスラー)から見た木戸修
メキシコの団体を中心に活動していたが、1981年にプロレス留学目的で新日本プロレスに入団。日本でのデビュー戦は4月21日の小山ゆうえんちにて行われたタッグマッチであった(パートナー:星野勘太郎 対戦者:木戸修・永源遥組)。(ブラック・キャット (プロレスラー) フレッシュアイペディアより)