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式守与太夫 (10代)から見た木村瀬平
式守清三郎時代の1961年5月場所4日目、中入の取組で組まれた前頭13枚目佐田の山(のち9代出羽海)?十両筆頭清ノ森(のち10代木瀬)戦を裁いた。この勝負は清ノ森が肩透かしで佐田の山を破ったが、この場所の幕内最高優勝は佐田の山(12勝3敗)で、十両優勝は清ノ森(同)。幕内最高優勝力士が十両優勝力士に敗れるという、結果的には異例な一番になった。(式守与太夫 (10代) フレッシュアイペディアより)
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市原孝行から見た木村瀬平
高校と大学とで通算11冠のタイトルを獲得し、2006年には国民体育大会の成年男子Aと全日本相撲選手権大会(アマチュア横綱)を制し、国際大会でも相撲が正式競技となったワールドゲームズ2005で無差別級金メダルと115kg超級銀メダルを獲得した。これらの成績により、本人は2001年に現行の幕下付出制度が開始されてから初めて幕下10枚目格付出の権利を得た人物となり、日本大学相撲部の先輩である木瀬親方(元幕内・肥後ノ海)が師匠を務める木瀬部屋へ入門して、2007年1月場所に本名の「市原」を四股名として幕下10枚目格付出で初土俵を踏んだ。当時創設3年目の木瀬部屋において、本人は入門してすぐに部屋頭になった。(市原孝行 フレッシュアイペディアより)
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常幸龍貴之から見た木村瀬平
2012年5月場所、新十両(西十両12枚目)昇進。初土俵から所要6場所の十両昇進(幕下付け出しを除く)は板井と土佐豊に並ぶ史上1位タイのスピード記録となった。また、十両への昇進決定と同時に四股名を「佐久間山」から「常幸龍」へと改めた。四股名は2009年2月に亡くなった父親の名前から「幸」という1字を取って木瀬親方(元幕内・肥後ノ海)が命名した。新十両の場所は8勝7敗と勝ち越しを果たした。翌7月場所では終盤に失速したものの10勝5敗という好成績を挙げた。翌9月場所では11勝4敗の好成績を挙げて優勝決定戦まで進出し、優勝決定戦でも勢を破って初の十両優勝を果たした。また、序ノ口から十両まで、各段全てで優勝決定戦に出場したのは史上初の記録となった。そして翌11月場所において新入幕を果たした。初土俵から所要9場所での新入幕(幕下付出を除く)は、年6場所制が定着した1958年以降では史上1位のスピード記録となった。しかし折しも新横綱であった日馬富士に話題を独占され、自身のスピード入幕はあまりメディアで取り扱われなかった。新入幕の場所では、2日目から5連敗を喫するなど調子が上がらず、結果的には6勝9敗と自身の入門後において初めての負け越しとなった。(常幸龍貴之 フレッシュアイペディアより)
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志摩ノ海航洋から見た木村瀬平
2014年7月場所で土俵復帰したが、番付は序ノ口まで転落。この場所は7戦全勝で序ノ口優勝を果たした。翌9月場所も序二段優勝を果たし、優勝インタビューでは「落ち着いていけたことが良かった。膝の痛みはまだあるが、腫れはなくなってきた。とにかく前に出るしかない。幕下に戻るまでは、このまま全勝でいきたい。」と怪我の快癒を明かしつつ今後の抱負を語った。三段目に復帰した翌11月場所では3日目の3番相撲で元幕内の大喜鵬に敗れ、上述の「抱負」は叶わなかったが、翌2015年1月場所で幕下に復帰。2016年1月場所では6勝1敗で幕下の優勝決定戦に進出し、1回戦で同部屋の宇良と対戦した。5月場所では東幕下5枚目で千秋楽の元十両・竜電戦で勝ち越して4勝3敗と、通常ならば幕下に留め置かれる成績だったが、十両下位及び幕下上位に負け越した力士が多かった関係で場所後の新十両が決定した。このタイミングで師匠・木村瀬平の現役時代の四股名肥後ノ海にちなみ、「志摩ノ海」に改めた。十両昇進後、志摩ノ海は復帰するまでの稽古やトレーニングについて「自由にやらせてくれた」と木瀬に感謝するコメントを残しており「親方はその人のレベルに合った話しかしないので、自分でレベルを上げていってさらに高いレベルの話を聞きたいと思って頑張ってきた。強くなったら『次はこれだ』と新たな課題も出してくれる」とも話した。同年7月2日には伊勢志摩ロイヤルホテルで自身の新十両祝賀会が開かれ、関係者・後援者・ファンなど470人以上が駆け付けた。志摩ノ海は「ここまで来れたのは地元の方々や応援していただいている方々のおかげ。将来は武双山関のような相撲をとれる力士になりたい」と話し、三重県からは57代横綱・三重ノ海以来横綱が出ていない旨を記者に言及された際には「できるだけ上に上がれるように頑張りたい」と目を細めた。7月場所は中日まで4勝3敗と一進一退であったが、9日目から8連敗して4勝11敗と大敗を喫し、幕下からの出直しを余儀なくされた。(志摩ノ海航洋 フレッシュアイペディアより)