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強行規範から見た条約
強行規範(きょうこうきはん)とは、国際法上いかなる逸脱も許されない規範である。ユス・コーゲンス(ラテン語:jus cogens)ともいう。条約法に関するウィーン条約(以下条約法条約)によると、強行規範を変更や終了できるのは強行規範のみであり、強行規範に反する条約は無効とされ(第53条)、条約締結後にその条約に反する新たな強行規範が生まれた場合にはその条約は終了するとされる(第64条)。そのため国際法の縦の序列関係においては上位の法として位置づけられ、強行規範に反する条約や慣習国際法に対して絶対的優位に立つ。このような上位規範の存在は国際法秩序における法の支配の進歩といえるが、その一方で条約関係を不安定なものとするおそれもある。しかし強行規範の具体的内容については、条約法条約の審議において侵略、奴隷取引、海賊行為、ジェノサイドの禁止などを強行規範として認める規定を置こうとする主張もあったが、このような性質をもつ規範は未だ少数であり、強行規範と主張する意見がありながらも未確定のものが多い。(強行規範 フレッシュアイペディアより)
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児童の権利に関する条約から見た条約
児童の権利に関する条約(じどうのけんりにかんするじょうやく、英語:United Nations?Convention on the Rights of the Child)は、児童(18歳未満の者)の権利について定める国際条約である。通称は子どもの権利条約(こどものけんりじょうやく)。略称はCRCあるいはUNCRC)?。(児童の権利に関する条約 フレッシュアイペディアより)
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ベラルーシ共和国憲法から見た条約
ベラルーシが初めて憲法を制定したのは、ソビエト共和国であった1919年であった。この憲法は、ベラルーシが1919年にロシア、ウクライナ、南コーカサスとともにソビエト連邦を結成する条約に署名するまで使われた。白ロシア・ソビエト社会主義共和国(白ロシアSSR)となったこの国は1927年に憲法を制定したが、これはソビエト連邦憲法を補完するものであった。その後1937年、1978年と新しい憲法が制定されたが、後者は主に1977年ソビエト連邦憲法における変更に対応するためのものであった。(ベラルーシ共和国憲法 フレッシュアイペディアより)
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大院君政権から見た条約
1866年7月(朝鮮暦、以下1894年まで同じ)、アメリカ合衆国の商船ジェネラル・シャーマン号が大同江をさかのぼって平壌府に至り、開国通商を求めて発砲におよんだため、平壌の軍民は平安道観察使朴珪寿の指揮下にこれを焼き払って座礁させ、乗組員を全員殺害した(ジェネラル・シャーマン号事件)。同年8月、フランス極東艦隊司令長官は3隻の軍艦を江華島付近に侵入させ、そのうち2隻は漢江を遡航して首都漢城をおびやかした。これは、先の大虐殺の際に助命された神父の1人フェリックス=クレール・リデルが朝鮮人天主教徒に助けられて脱獄し、清国に逃亡して天津のフランス租界でローズに助けを求めた結果だった。フランス艦隊は9月、7隻に横浜に駐屯していた海兵隊員を乗船させて江華島沖に再び侵入し、江華府を占領し、神父殺害者の処罰と条約の締結を朝鮮政府に要求した。大院君政権は漢城から部隊を派遣し、射撃を得意とする地方の猟師を動員して砲軍として組織した。10月、朝鮮軍は鼎足山城においてフランス軍に勝利し、フランス艦隊は撤退した。このアメリカ、フランスの侵攻のことを合わせて「丙寅洋擾」と呼称している。(大院君政権 フレッシュアイペディアより)