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亀戸日勝映画劇場から見た東京大空襲
亀戸日勝映画劇場(かめいどにっしょうえいがげきじょう)は、かつて存在した日本の映画館である。正確な年代は不明だが1910年代の大正年間には東京府南葛飾郡亀戸町(現在の東京都江東区亀戸)に電気館(でんきかん)として開館、のちに亀戸電気館(かめいどでんきかん)と称した。1930年(昭和5年)前後に同町内に開館した亀戸昭和館(かめいどしょうわかん)とともに簱興行傘下に入ったが、第二次世界大戦末期の東京大空襲で全焼・閉館した。戦後は1951年(昭和26年)7月、亀戸劇場(かめいどげきじょう)として復興、1964年(昭和39年)には建替えられて亀戸日活劇場(かめいどにっかつげきじょう、のちに亀戸日勝映画劇場と改称)、亀戸スカラ座(かめいどスカラざ)として改めて開館した。1981年(昭和56年)にはいずれも閉館した。(亀戸日勝映画劇場 フレッシュアイペディアより)
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B-29 (航空機)から見た東京大空襲
8万人以上の一般市民が焼死、100万人以上被災の東京大空襲、1万人焼死の大阪大空襲は、B-29の重要な「戦果」とされる。さらに日本各地の港湾・航路に空中投下機雷を散布し海上封鎖、国内航路に大打撃を与えた(飢餓作戦)。特に関門海峡はじめ主要港湾や海峡に多くの機雷を投下、当初は数十機編隊で、1機あたり爆弾搭載量2-3トンであったが、1945年になると防御火器を撤去し5-6トン搭載になり、最盛期にはB-29約400-500機の大編隊で来襲した。同年春以降は、東京・大阪・名古屋など大都市をほぼ焼き尽くしたので、地方都市を目標とし、数十機から百数十機で爆撃した。またアメリカ軍は同年6月以降、爆撃予告ビラを作成、B-29によって全国32都市へばら撒いたとされ、約半数の都市を実際に爆撃した。日本国民に向けた声明とB-29が爆撃をする予定の都市を記したもの、爆撃後の日本国民の惨状を文章と絵で示したものなどがあった。(B-29 (航空機) フレッシュアイペディアより)
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隅田公園駅から見た東京大空襲
隅田公園駅は、延伸区間で唯一の中間駅として開設された。浅草駅を発車した列車が、隅田川橋梁を渡ってカーブを通過した所にあり、駅のロケーションは北十間川の北縁かつ隅田公園の南縁に沿う形で設置され、名前の通りに公園の最寄り駅となった。立派なホーム上屋を持つ高架駅であって、ホームの有効長も長く取られていた。また構内には分岐器があり、このことから「停車場」として扱われていた。しかしながら、駅の利用率は近接の浅草雷門、業平橋に近かったためかわずかであり、太平洋戦争による戦時体制が濃くなった1943年(昭和18年)には東上線玉淀駅、亀戸線虎橋通駅とともに不要不急駅の整理の対象となって廃止されることとなった。もっとも廃止申請の際、隅田公園駅のみ「向こう3年の休止」として申請された。昭和18年12月24日付で許可書が届き、隅田公園駅はこれに基づいて昭和18年12月30日限りで休止となった。駅施設は休止中の1945年(昭和20年)3月9日から10日にかけての東京大空襲で焼失した。(隅田公園駅 フレッシュアイペディアより)