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東京大空襲から見た石川光陽
3月10日の空襲の惨状は、警視総監より撮影の任務を受けた、警視庁の石川光陽によって、33枚の写真が残された(上の画像参照)。それらは戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) からネガを引き渡すよう命令が下るが、石川はこれを拒否し、ネガの代わりにプリントを提出することで追求を逃れる一方、ネガを自宅の庭に埋めて守り保管したという。この33枚の写真は、東京大空襲の悲惨さを伝える貴重な資料となっているが、石川自身は本当はこのような写真は撮りたくないと言っている。なお、石川はほかにも1942年(昭和17年)のドーリットル空襲から1945年(昭和20年)5月25日の空襲まで記録写真を撮影しており、東京の空襲全体では撮影枚数は600枚を越える。(東京大空襲 フレッシュアイペディアより)
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東京大空襲から見たヴァネヴァー・ブッシュ
1943年8月27日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は日本打倒の空戦計画を提出、日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張、焼夷弾の使用に関しても言及。この時、アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていたが、アーノルドが上層部へ計画決定要請を行った記録はない。(東京大空襲 フレッシュアイペディアより)
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