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東北地方から見た足利満貞
鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇の建武の新政では、奥州平定のために北畠顕家が派遣され、陸奥国府を支配した。南北朝時代に入ると南朝の北畠顕家・北畠顕信と北朝の石塔氏・吉良氏・畠山氏・斯波氏が激しく争い、最終的に北朝の斯波家兼が奥州管領として勝利した。その後斯波氏が奥羽両国に勢力を扶植するが次第に衰退したため、関東を統治した鎌倉府に統合された。鎌倉府は統治能力の強化のため奥州南部に篠川公方・稲村公方を配置するが、室町幕府と鎌倉府の対立の中で、斯波氏(大崎氏・最上氏)は室町幕府から奥州探題や羽州探題に補任される。さらに有力国人は鎌倉府と対立するため、室町幕府直属の京都扶持衆となる例も多く見られた。(東北地方 フレッシュアイペディアより)
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東北地方から見た阿倍比羅夫
日本海側では、すでに新潟県上越地方(頸城郡)まで征服したヤマト王権と越国(こしのくに)の連合軍が、「柵(き)」と呼ばれる前線基地を築きながら北進する。まず、大化3年(647年)に渟足柵(現在の新潟市中心部)、さらに大化4年(648年)に磐舟柵(現在の岩船郡、村上辺り)を設置し、日本海沿岸を次々と越国に組み入れていった。斉明天皇4年(658年)になると、越国守であった阿倍比羅夫が、180艘の軍船を率いてさらに日本海沿岸を北上し、「鰐田(あぎた)の浦」(現在の秋田市周辺?)から津軽地方へと到った(日本書紀)。これが蝦夷征討なのか武装交易船団なのかは定説がない。少なくともこの阿倍水軍は斉明天皇4年(658年) - 斉明天皇6年(660年)の間に3度来航し、交易をして帰っている。その後、畿内政権と同盟関係にあった百済が新羅の侵攻を受けたため、阿倍水軍もその戦列に加わり東北日本海側への遠征は中断された。(東北地方 フレッシュアイペディアより)
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東北地方から見た西郷隆盛
江戸幕府が倒れて後、幕末の慶応4年/明治元年(1868年)には北陸地方東部の北越戦争から続く会津戦争など戊辰戦争の舞台となり、東北や北陸東部の諸藩は奥羽越列藩同盟と呼ばれる軍事同盟を結んで新政府軍より身を守ろうとしたが、結局敗れた。この報復として、同盟に参加した藩は所領を大幅に減らされ、その経済は壊滅同然にまで追い詰められた。その結果北海道へ家臣団(武士階級、知識階級)などを移住させ、札幌などの諸都市を開拓するなど、北海道の開拓史に大きな功績を残した。新政府側につき、奥羽越列藩同盟を離脱した秋田藩・弘前藩などもまた、戊辰戦争で多くの犠牲を払い莫大な出費をしたため困窮は避けられず、同様に北海道に多くの移住者を出した。一方で庄内藩は最後まで幕府側として戦ったものの、西郷隆盛の意向もあり比較的軽い処分で済んでおり、米沢藩もまた維新後に積極的に新政府に協力することで軽い処分となった。(東北地方 フレッシュアイペディアより)