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2010年の日本プロ野球から見た東尾修
1月12日 - 野球殿堂入りが発表され、元西武ライオンズの東尾修と、元ロッテオリオンズ、中日ドラゴンズの江藤慎一と、元立教大学、熊谷組の古田昌幸を選出。中日の監督の落合博満は史上初めて2年連続で1票差で落選(2010年の日本プロ野球 フレッシュアイペディアより)
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アーキー・シアンフロッコから見た東尾修
この年まで2年間西武に在籍していたドミンゴ・マルティネスは打撃には優れていたが一塁しか守れない守備と鈍足が難点で、西武は2年ともリーグ優勝はしたが、日本シリーズでは指名打者制のない試合の際にマルティネスを使えず、攻撃力不足に陥ってともに敗退した。このことから監督の東尾修が「日本シリーズで勝てるチームに」と、マルティネスを解雇してまで守備力優先でシアンフロッコを獲得した。(アーキー・シアンフロッコ フレッシュアイペディアより)
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河村英文から見た東尾修
1972年に一軍投手コーチとして西鉄に復帰した際、当時人材不足のためほぼ毎試合登板していた東尾修と同年入団の加藤初、後に近鉄へ移籍する柳田豊を指導。ふがいない投球をしようものなら容赦なく鉄拳を飛ばす指導をし、東尾にはインコースのシュート攻めを伝授している。河村は投手には厳しかったが新人捕手の若菜嘉晴にはピッチャー目線で丁寧に指導し、若菜はボールを捕り続けることでキャッチング投球を磨いたという。南海コーチ時代には選手にレポートを提出させることで知られ、加藤伸一、藤本修二、井上祐二を一人前に育てた。オリックスコーチ時代に指導した小倉恒は「河村さんから、インコースを投げるように教わって、ピッチングの幅が広がりましたし、良くなりました。」と語り、小倉は当時自己最多の48試合に登板した。戎信行は2000年春のキャンプで河村から「おれについてきたらタイトルをとらせてやる」と言われ、戎は「正直言って、それまでは人の意見はまったく聞きませんでした。信頼感というんでしょうか。ヨシ、この人についていこうと心に決めたんです」と述べている。河村の言葉通り、最優秀防御率のタイトルを獲得した。戎は「周りのアドバイスを聞くことが、いかに大事か。いまの自分があるのも、それを教えてくれた河村さんのおかげです」 と述べている。(河村英文 フレッシュアイペディアより)
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2009年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズから見た東尾修
実況:斉藤一美、解説:東尾修、ゲスト:工藤公康、リポーター:飯塚治(両サイド兼務)(2009年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ フレッシュアイペディアより)
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1988年の西武ライオンズから見た東尾修
この年の西武ライオンズは、森祇晶監督の3年目のシーズンであり、4年連続のリーグ優勝と3年連続の日本シリーズ制覇を果たしたシーズンである。このシーズン限りで、東尾修が引退した。(1988年の西武ライオンズ フレッシュアイペディアより)