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1975年の日本ハムファイターズから見た東尾修
ファイターズとして2年目のシーズンを迎え、三原脩球団社長は本格的にチーム改造に着手、大杉勝男を内田順三・小田義人との交換でヤクルトへ、白仁天を東田正義との交換で太平洋クラブへ、大下剛史を上垣内誠・渋谷通との交換で広島へそれぞれ放出。こうして張本勲を除く東映時代の主力打者を一掃した打線は小田が最後まで首位打者を争ったが太平洋の白に5毛差及ばず2位、一方で前年の首位打者張本は.275と振るわなかった。また投手陣は高橋直樹が東尾修、鈴木啓示に次ぐ17勝をマーク、野村収も11勝止まりながら22勝の鈴木と共に最高勝率のタイトルを獲得したがチーム防御率はリーグ最下位。チームは前期・後期ともに4位だったが、総合では南海に勝率で1厘及ばず2年連続の最下位となり、中西は解任。シーズン終了後、張本も高橋一三・富田勝との交換で巨人へ放出となり、新たに大沢啓二を監督に迎え、チームの再構築が始まることになる。(1975年の日本ハムファイターズ フレッシュアイペディアより)
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ルディ・ペンバートンから見た東尾修
も9月まではまともな働きがなかったが、代打でこの年の初本塁打を放つと調子を挙げ、9月25日の対近鉄バファローズ戦で監督の東尾修はこの年苦手としていた相手左腕・真木将樹対策のため、ペンバートンを4番に大抜擢した。そしてこの試合で1本塁打を含む5打点の大暴れでチームを調子づかせた。その後も相手投手が左腕の際にはしばしば4番に座った。(ルディ・ペンバートン フレッシュアイペディアより)
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橋本武広から見た東尾修
ダイエー時代にはこれといった実績はなかったが、オフに秋山幸二・渡辺智男・内山智之との交換トレードで佐々木誠・村田勝喜とともに西武ライオンズに移籍すると、左の中継ぎ投手としてから7年連続して50試合以上の登板を果たした。この頃、監督の東尾修は地味な中継ぎ役を黙々とこなす橋本を高く評価し、1997年シーズンリーグ優勝が確定的になった際「胴上げ投手は是非橋本に」と提案した。しかしこの年西武はサヨナラ勝ちでリーグ優勝を決め(勝利投手は森慎二)、また日本シリーズはヤクルトに敗れてしまい、橋本は胴上げ投手になれなかった。1998年のシーズン、西武はリーグ連覇を達成。優勝決定試合において橋本は9回から登板し、1回を無失点に抑え胴上げ投手になった。(橋本武広 フレッシュアイペディアより)
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1978年のクラウンライターライオンズから見た東尾修
監督が鬼頭政一から根本陸夫に代わったが、ドラフト会議で指名した江川卓(法政大学)に入団を拒否され、更に春季キャンプ中に江田孝コーチが急逝と、次から次へと災難が起こる中のシーズン、真弓明信や立花義家といった若手や、中日から移籍したウィリー・デービスの活躍はあったものの、投手陣がエース東尾修以外は頼りにならず、結局1位上がっただけの5位となった。(1978年のクラウンライターライオンズ フレッシュアイペディアより)
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1997年の西武ライオンズから見た東尾修
この年の西武ライオンズは、東尾修監督の3年目のシーズンであり、3年ぶりにリーグ優勝を果たしたシーズンである。(1997年の西武ライオンズ フレッシュアイペディアより)
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