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雪江宗深から見た尾張国
幼い頃に京都建仁寺五葉庵に入って文瑛(ぶんえい)に師事して出家し、その後尾張国瑞泉寺の日峰宗舜に師事して参禅した。ついでのちに京都龍安寺の開祖となる義天玄詔に師事してその法を継いだ。義天の没後は龍安寺を継ぎ、その後は妙心寺・摂津国海清寺・河内国観音寺・尾張国瑞泉寺、丹波国龍興寺を歴住し、1462年(寛正3年)京都大徳寺の住持となった。応仁の乱(1467年?1477年)の間は丹波国龍興寺に難を逃れたが、乱後は後土御門天皇の勅命を受け、細川勝元・政元の援助を受けて大徳寺・妙心寺・龍安寺を再興した。また、土岐成頼の開基により、正法寺の開山となった。(雪江宗深 フレッシュアイペディアより)
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誉津別命から見た尾張国
一方『古事記』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられている。天皇は尾張の国の二股に分かれた杉で二股船を作り、それを運んできて、市師池・軽池に浮かべて、皇子とともに戯れた。あるとき皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。鵠は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越を飛んだ末に捕らえられた。しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった。ある晩、天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかった。天皇は皇子を曙立王・菟上王とともに出雲(現:島根県東部)に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったという。その帰り、皇子は肥長比売と婚姻したが、垣間見ると肥長比売が蛇体であったため、畏れて逃げた。すると肥長比売は海原を照らしながら追いかけてきたので、皇子はますます畏れて、船を山に引き上げて大和に逃げ帰った。天皇は皇子が話せるようになったことを知って喜び、菟上王を出雲に返して大神の宮を造らせた。また鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐を設けたという。(誉津別命 フレッシュアイペディアより)
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足助町 (豊田市)から見た尾張国
信濃国への道筋である伊那街道(飯田街道)は中山道の脇往還として発達したが、伊那街道を軸に美濃国岩村方面へと向かう美濃街道、尾張国への伊保街道、岡崎に向かう七里街道(足助街道)へも通じる中継地であった足助は、古来より政治・軍事・交通の要衝ともなった。古代には信濃の黒曜石が運ばれ、戦国時代末期には小城下町と呼ぶにふさわしい町並みが形成されており、商家も出現していたようである。江戸時代に入り元禄期頃には宿場町・在郷町としての性格を強く帯びるようになり、足助町(あすけまち)を称するようになる。宿屋・問屋・馬宿・飲食店などが軒をつらねて人馬の著しい往来を支え、物流の多さと宿場の活況は伊那街道沿いにあって飯田に次ぐ規模を誇ったといわれるが、やがて幕末が近づくと、酒・味噌・紙・油を扱う生産的商人が登場し、中継商業基地としてのみならず地方小商業都市としての性格も帯びてくる。1878年(明治11年)には郡区町村編制法により東加茂郡が成立し、郡役場が置かれた足助は郡政の中心としての発展を見、繭・生糸・木材・竹材・薪炭などがここに集積する郡レベルでの地方経済・金融の拠点ともなったが、大正時代から昭和時代になるとさらに観光都市としての性格も加わるようになる。(足助町 (豊田市) フレッシュアイペディアより)