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尾張国から見た徳川義直
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが発生。挙兵した石田三成の狙いは尾張・三河を電撃的に掌握し東海道の徳川軍を挟撃することにあったが失敗。一方、小山から転進した東軍は清洲城を集結地点として進軍。尾張・美濃の両国は東西両軍による前哨戦の舞台となる。戦後、福島正則は大きく加増され安芸広島に転封となる。そして、関ヶ原の戦功により徳川家康の四男松平忠吉が領主となり、尾張国全域と美濃の一部を領地とする清洲藩が成立した。しかし忠吉は1607年(慶長12年)に28歳の若さで逝去。無嗣断絶となる。家康の九男で忠吉の弟にあたる甲斐甲府藩主の徳川義直が転封して清洲藩を継承した。(尾張国 フレッシュアイペディアより)
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尾張国から見た名古屋城
徳川義直の入府後、東海道筋の重要拠点として再整備が行われる。1609年、大御所家康の意向により廃城となっていた那古野城址に新城として名古屋城の築城が決定となる。これにあたって全国の諸侯が動員された。(天下普請)天守台石垣については加藤清正が普請助役となった。築城にあたり清洲城下町がそっくり移転され、清洲城の資材は名古屋築城に再利用された(清洲越し)。こうして長らく尾張支配の象徴だった清洲城は破却となり、かわって名古屋城が中心となる。この決定については、清洲城址の発掘調査で1586年1月18日(天正13年)に発生した天正地震で深刻な液状化現象が発生し、当時の清洲城主・織田信雄が大規模な改修を行ったが根本的な解決に到らなかったためと考えられている。また名古屋移転に伴い、呼称も清洲藩から尾張藩と改められた。家格も徳川御三家の筆頭という格別な位置に置かれ、その城下町たる名古屋は日本で十指に入る一大都会となった。(尾張国 フレッシュアイペディアより)