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名古屋電灯から見た東洋紡
岐阜県加茂郡八百津町での発電所建設計画の歴史は1896年までさかのぼるが、実際に具体化するのは岐阜県選出の衆議院議員兼松煕が1903年に参画してからである。兼松は地元の意見をまとめるとともに東京の岩田作兵衛らを計画に引き入れ、さらに名古屋所業会議所会頭になっていた奥田正香の賛同も取り付けた。名古屋からは奥田の他に日本車輌製造の上遠野富之助、三重紡績の斎藤恒三、名古屋電気鉄道の白石半助などが発起人に加わっている。名古屋電灯代表の三浦恵民も、兼松・奥田に招かれたためこの事業に加わって供給力を増強しようと考えたが、社内の意見が一致せず断念した。(名古屋電灯 フレッシュアイペディアより)
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九鬼紋七から見た東洋紡
1886年(慶応2年)1月に四日市の中納屋町69番地在住の大地主の四日市九鬼家に誕生する。戦国時代?安土桃山時代に活躍した九鬼水軍の末裔である。四日市九鬼家の先祖が四日市に居住したのは九鬼家初代の九鬼宗住(享保元年没)の時代と想定される。その末裔の九鬼5家の1人の九鬼徳平(7代目九鬼紋七)とむつの間に誕生したのが、幼名が九鬼徳松で、その後成人した8代目九鬼紋七である。初名は九鬼徳三であり、福沢諭吉が開校した慶應義塾を卒業して慶應の学閥の三田閥出身の実業家として四日市電灯・三重人造肥料・四日市倉庫社長となる。弟の九鬼金松は九鬼5家の1人の叔父初代九鬼紋十郎の後を継ぎ2代目九鬼紋十郎を襲名している。父の7代目九鬼紋七は、1889年(明治22年)4月に三重郡四日市町会議員となった。三重紡績株式会社(その後の東洋紡績株式会社)や関西鉄道の創立や四日市地域内の公共事業に尽力した実業家であった。(九鬼紋七 フレッシュアイペディアより)