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福武電気鉄道デキ1形電気機関車から見た東洋紡
1975年(昭和50年)にデキ1は南越線へ転属した。これは南越線にて電気機関車代用として貨物列車牽引に用いられたモハ110形111が同年に事故廃車となったための措置で、以降デキ1は南越線五分市駅に隣接する東洋化成工業(現・東洋紡)武生工場および福井化学工業(現・レンゴー)武生工場を発着する貨物列車牽引運用に充当された。なお、デキ1の南越線転属に伴って福武線貨物列車用の電気機関車が不足したため、同年3月に遠州鉄道より東洋電機製造製の25 t級電気機関車1両(ED21形ED213)を借り入れた。ED213は同年8月に正式に福井鉄道へ譲渡され、デキ3の記号番号を付与して既存形式のデキ1形へ編入した。(福武電気鉄道デキ1形電気機関車 フレッシュアイペディアより)
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釜龍財閥から見た東洋紡
明治初期以来、鉱工業への進出は著しく、商業主義と言われた益田孝でも三池炭鉱や神岡鉱山に進出した。中上川彦次郎の工業主義が急進的であったので、それとの対抗上、商業主義を強調した傾向がある。益田孝が鉱工業を軽視していたのではないもう一つの証拠は、三井合名理事長に團琢磨を選出し、芝浦製作所を三井の傘下に置いたことである。三井物産は、自ら三井船舶や三井造船を分離していく一方、海外からのノウハウをもとにして東洋レーヨンなどを起こして多角化していった。1895年(明治28年)の三井工業部は、『芝浦製作所』、『三重紡績所』、『名古屋製糸所』、『大崎製糸所』、『富岡製糸所』、『前橋絹糸紡績所』、『新町絹糸紡績所』の7つが直系傘下であった。三井は職工に対する教育を銀行等ホワイトカラーと同じように優遇した。この姿勢は武藤山治によって引き継がれ、職員層(ホワイトカラー)と工員層(ブルーカラー)を選別しない「経営家族主義」「温情主義」と呼ばれ、当時の官尊民卑風潮において先駆的な労働管理思想であった。(釜龍財閥 フレッシュアイペディアより)
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松本重太郎から見た東洋紡
百三十銀行の蹉跌の原因は第一に、頭取松本が同行を自分が関係している事業の金融機関として利用したことにあった。また重太郎の考えにそって「人物の堅実にして、手腕と技量と共に優秀なりと認めた者には、その担保品の有無は敢えて甚だしく問う所なく、巨額の財を賃与したる」という人物本位の融資方針をとっていたといわれる。また同行は取引が「敏活」で大阪の商家には人気があったといわれる。しかし松本重太郎の企業者活動を通して、大阪紡績(現・東洋紡績)、南海鉄道(現・南海電鉄)、山陽鉄道(現・JR西日本)、日本火災保険(のちの日本火災海上保険、現損保ジャパン日本興亜ホールディングス/損害保険ジャパン日本興亜)、大阪麦酒(現・アサヒGHD/アサヒビール)など、松本がつくった企業はいまなお活躍を続けている。また百三十銀行を通じて行った融資によって発展の礎を築いた企業も少なくない。その意味で、松本重太郎はベンチャービジネスのエンジェルでもあった。百三十銀行の破綻後、松本は隠居し、その整理が済んだ後も、再び実業界には戻らなかった。豪壮な堂島の本邸を引き払い、上本町の仮宅に篭居したのち、出入りの大工が提供した住居で老後を送った。69歳で癌により死亡。(松本重太郎 フレッシュアイペディアより)