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足助町 (豊田市)から見た岡崎市
信濃国への道筋である伊那街道(飯田街道)は中山道の脇往還として発達したが、伊那街道を軸に美濃国岩村方面へと向かう美濃街道、尾張国への伊保街道、岡崎に向かう七里街道(足助街道)へも通じる中継地であった足助は、古来より政治・軍事・交通の要衝ともなった。古代には信濃の黒曜石が運ばれ、戦国時代末期には小城下町と呼ぶにふさわしい町並みが形成されており、商家も出現していたようである。江戸時代に入り元禄期頃には宿場町・在郷町としての性格を強く帯びるようになり、足助町(あすけまち)を称するようになる。宿屋・問屋・馬宿・飲食店などが軒をつらねて人馬の著しい往来を支え、物流の多さと宿場の活況は伊那街道沿いにあって飯田に次ぐ規模を誇ったといわれるが、やがて幕末が近づくと、酒・味噌・紙・油を扱う生産的商人が登場し、中継商業基地としてのみならず地方小商業都市としての性格も帯びてくる。1878年(明治11年)には郡区町村編制法により東加茂郡が成立し、郡役場が置かれた足助は郡政の中心としての発展を見、繭・生糸・木材・竹材・薪炭などがここに集積する郡レベルでの地方経済・金融の拠点ともなったが、大正時代から昭和時代になるとさらに観光都市としての性格も加わるようになる。(足助町 (豊田市) フレッシュアイペディアより)
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