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松沢呉一から見た松本サリン事件
1993年5月22日には、日本青年館でオウム真理教の専属オーケストラであるキーレーンのコンサートを鑑賞。麻原彰晃作曲とされる曲が意外に面白く驚いたが、オーケストラの団員は指揮者を見ず、まとまりに欠けると批評。この当時のロシアは、長年宗教が抑圧されていたため、オウム真理教は信徒数を大幅に伸ばし、宗教の入れ食い状態であり、自由の象徴ですらあるとも述べている。このコンサートの後で、出家前にはアサ芸の元ライターだった広報担当者と食事をするが、「坂本弁護士はどこへ行った」などと尋ねる。この際には、坂本弁護士一家失踪事件はオウムの仕業ではないと考えていた。1995年以降のオウム真理教事件については、前年の松本サリン事件を教訓に、オウムに対しても慎重な態度を取るべきだと主張した。そのため、実際に殺害の対象とされていた小林よしのりや、切通理作に「オウムの手先」と非難された。また、切通は『宝島30』で、松沢の本名を挙げて非難している。小林に非難された宅八郎、鈴木邦男、?師一彦、絓秀実、西岡昌紀らと共に、のちに反論本『教科書が教えない小林よしのり』を出している。(松沢呉一 フレッシュアイペディアより)
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奥寺敬から見た松本サリン事件
信州大学医学部附属病院救急部教官当時、1994年6月の松本サリン事件を医療サイドで経験、自宅は現場の至近であり被災地域でもある。この事件を契機として救急・災害医学の研究に着手。サリンが神経ガスであることより神経蘇生、神経救急集中治療学などの概念を考案。1998年長野市で開催された第18回長野オリンピック冬季競技大会の医療救護ディレクターに指名され、前大会である1996年アトランタオリンピックの医療救護の現地視察に派遣され、現地でFEMAやCDCのオリンピック医療への参画、トリアージの運用と、医師スタッフ採用基準であったACLS等に触発され、災害医療の研究に着手する契機となった。(2003年富山県下救急救命士会 特別講演「富山医科薬科大学、救急・災害医学講座のめざすもの」より)(奥寺敬 フレッシュアイペディアより)
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第39回衆議院議員総選挙から見た松本サリン事件
なお、この総選挙では宗教団体のオウム真理教(現:アーレフ)が「真理党」を結成し、教祖の麻原彰晃(本名:松本智津夫)や信徒の上祐史浩など25人を立候補させたが、供託金没収の惨敗となった。特に麻原が出馬した東京都第4区では、開票に不正がないか確かめるため、信者3人にわざと本名の松本智津夫で投票させた上で、開票時の立会時に票を確認させた。実際には発見するのは至難の業であるが、麻原は松本票を確認できなかったことを「選挙不正」であると喧伝した(野田成人著『革命か戦争か』)。これを機に教団が武力による権力掌握に方向転換、後の松本サリン事件や地下鉄サリン事件といった一連のオウム事件へとつながったと言われている。(第39回衆議院議員総選挙 フレッシュアイペディアより)
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犯罪被害者等支援条例から見た松本サリン事件
犯罪被害者等に対して支援金支給に関する地方自治体の条例については埼玉県蕨市が1972年に制定した「蕨市災害見舞金及び弔慰金の贈呈に関する条例」が最初とされる。蕨市では「第三者によって加えられた人為的行為により死亡し、または重傷を負った者」に弔慰金などを支給することを規定していた。その後、長野県松本市では平成8年(1996年)に「松本市サリン事件等被害者健康管理基金条例」では寄付金と一般会計からの繰入金をもって基金を積み立て、平成6年(1994年)にオウム真理教が起こした松本サリン事件の被害者に対して基金から弔慰金が支給することを規定している。(犯罪被害者等支援条例 フレッシュアイペディアより)
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MMR マガジンミステリー調査班から見た松本サリン事件
1995年3・4合併号〜5号に掲載された『甦るノストラダムス 暗黒大予言』の回は単行本未収録となっている。要因としては、当時の地元警察が第一通報者の会社員(河野義行)が起こした薬物実験事故として捜査していた松本サリン事件を下敷きにして「世界を裏から支配する『300人委員会』によるサリンを使ったテロが起きる」という予見を描いた所、掲載の2ヶ月後に地下鉄サリン事件が実際に発生して、一連のサリン事件が300人委員会ではなくオウム真理教の犯行と判明したためであるとされている。(MMR マガジンミステリー調査班 フレッシュアイペディアより)