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立川談志から見た柳家小三治
談志の死去を受けて、11月23日、8代目橘家圓蔵と林家木久扇が日本テレビのニュース番組『news every.』に生出演し、談志との想い出を語った。また、日本テレビ『金曜夜席』当時からの友人である桂歌丸、上方落語界長老の3代目桂米朝も逝去を悼むコメントを発表した。弟弟子で落語協会会長の柳家小三治は「とんでもない人物だった。今でも兄弟弟子という思いは強い」と語り、兄弟子の死を悼んだ。また、談志に憧れて落語家の道を志した上方落語協会会長の桂三枝(現:6代桂文枝)も談志の訃報が公表された日の緊急会見で「嘘であって欲しいと思いました」と泣き崩れながら談志を偲んだ。(立川談志 フレッシュアイペディアより)
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柳家小さん (5代目)から見た柳家小三治
1947年(昭和22年) - 真打に昇進し、9代目柳家小三治を襲名。真打昇進興行中に、師匠・4代目小さんが急死。8代目桂文楽の預かり弟子になる。(柳家小さん (5代目) フレッシュアイペディアより)
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橘家米蔵から見た柳家小三治
入船米蔵(1870年(明治3年) - 1907年(明治40年)1月15日) - 春麗亭柳花(松平乗房)の弟。子供の頃から噺家のようで最初は柳派属しで花好名乗った。明治10年代前半に6代目船遊亭扇橋の門下で船遊亭扇馬、明治10年代後半に3代目麗々亭柳橋(後の初代春錦亭柳桜)の門下で麗々亭柳若、1901年、2年頃に3代目春風亭柳枝の門下で春風亭桃枝、1902年、3年頃に入船米蔵になる。1901年の寄席の楽屋には『十歳の少年で故人柳桜の弟子になり…器用で記憶のよいことに至りては師匠も驚いた…真打になれずに居るのはどういう事情のあるものか…こんな好男子がガンモドキなどという綽名をつけています。…能弁で芸もある割合に噺は陰気で愛嬌がありませんね。当人もモウ少しこの辺に注意して高座を賑やかにやったら来春は真打になれるでしょう』と書かれている。若いときは小三治(後の3代目柳家小さん)と同格の扱いを受けたが皮肉にも底意地が悪い面もあり評判が悪く大成しなかった。渾名(あだな)は「ガンモドキ」。本名、福井定吉。(橘家米蔵 フレッシュアイペディアより)