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タモリのオールナイトニッポンから見た柳家小三治
同じ時期、TBSラジオで放送されていた、林美雄がメインパーソナリティを務めていた『パックインミュージック』に高がゲスト出演した際にタモリも出演。林が話すデタラメなニュースにタモリがこれまたデタラメな外国語で同時通訳をした。この放送はかなりの印象をリスナーに与え、当時の10代目柳家小三治もTBSに問い合わせをしたという。(タモリのオールナイトニッポン フレッシュアイペディアより)
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柳家小さん (3代目)から見た柳家小三治
帰京後の1882年(ないし1883年)に初代談洲楼燕枝の門下となり柳亭燕賀となる。1883年頃に3代目春風亭柳枝に可愛がられたために柳亭燕花を名乗る。その後、師匠柳枝の前名、燕路を名乗らないかと薦められたが、柳枝の弟子で2代目燕路の弟子たちの反対で立ち消え。そのごたごたで廃業を余儀なくされた。諦めきれずに1886年(ないし1887年)に4代目都々一坊扇歌一門で噺家に復帰し都川歌太郎と名乗ったが、継子扱いだったので見かねた2代目禽語楼小さんが引き取り1892年6月に初代柳家小三治(はじめは小さん次)襲名し真打昇進。その後は人気も上がって出世し、師匠小さんが1895年ころから病気がちになり、3月日本橋木原亭で隠居名である柳家禽語楼を名乗ったと同時に小さんの名を譲られ、同年3月に3代目襲名。1905年には「第一次落語研究会」の発起人に。(柳家小さん (3代目) フレッシュアイペディアより)
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林家正蔵から見た柳家小三治
1894年3月31日東京三の輪生まれ。本名は海老名 竹三郎。海老名という苗字は母方の実家の名字で海老名家は鉄砲奉行の同心の家と伝わる。家業は穴蔵屋(角風呂専門の製造業)であったと長らくされてきたが風呂桶職人で素人の天狗連で新内や落語を語っていた。20歳の時に3代目神田伯山の講談を聴いて落語家になった。はじめ立花亭で下働きを始める。1919年1月に演芸速記記者であった今村次郎の紹介で初代柳家三語楼に入門して玄人となり、柳家三平を名乗る、初高座は立花亭であった、その後内山歌と結婚。1924年3月に7代目柳家小三治を襲名して真打昇進。師匠三語楼が東京落語協会(現落語協会)を脱会したため、協会側の4代目柳家小さん一門から「(小三治の)名前を返せ」と詰め寄られ、そうこうしている間に遂に8代目小三治が出現。結局5代目柳亭左楽を仲立ちとして6代目遺族から名跡を譲り受け、1930年2月に7代目正蔵を襲名して事態を収拾。1930年日本芸術協会(現:落語芸術協会)初代理事長を務める。1934年に東宝に移籍して東宝名人会の専属になる。(林家正蔵 フレッシュアイペディアより)
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1979年のテレビ (日本)から見た柳家小三治
4日 - テレビ朝日系日曜19時台後半枠(象印マホービン一社提供枠)にて、土居まさる(元文化放送アナウンサー)司会によるクイズ番組『象印クイズ ヒントでピント』(以下『ヒントでピント』)がこの日から放送開始。初代レギュラーは紅組:江利チエミ(キャプテン)、佐藤陽子(2枠)、寿ひずる(3枠)、谷川みゆき(4枠)、白組:笹沢左保(キャプテン)、柳家小三治(2枠)、黒澤久雄(3枠)、柴田恭兵(4枠)。初回ゲストは佐良直美と志賀勝(佐良は後に紅組キャプテンも務めた)。( - 1994年9月25日)。なお、紅組3枠は翌週11日より、寿ひずるから大地真央に僅か1週で交代。(1979年のテレビ (日本) フレッシュアイペディアより)