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金星 (相撲)から見た栃乃洋泰一
山錦(1931年(昭和6年)1月)、楯甲(1941年(昭和16年)5月)、若ノ花(1953年(昭和28年)5月)、琴錦(1954年(昭和29年)1月)、琴ヶ濱(1955年5月)、鳴門海(1957年(昭和32年)1月)、清國(1965年(昭和40年)1月)、大豪(1965年3月)、麒麟児(1966年(昭和41年)9月)、福の花(1970年(昭和45年)9月)、黒姫山(1979年3月)、栃赤城(1982年(昭和57年)1月)、栃乃洋(1998年9月)、玉春日(1999年1月)、琴錦(1999年7月) ( )内は3場所目の年月(金星 (相撲) フレッシュアイペディアより)
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碧山亘右から見た栃乃洋泰一
2012年2月13日に師匠である14代田子ノ浦が急逝して田子ノ浦部屋が閉鎖されたため、本人は同年3月場所前に春日野部屋へと移籍した。転籍後の初稽古では引退したばかりの竹縄が教育係を務めた。春日野部屋へ移籍して初めての場所となった同年3月場所では8勝7敗と勝ち越し、続く5月場所でも自己最高位となる西前頭6枚目の位置で11勝4敗と大きく勝ち越した。東前頭2枚目まで番付を上げた翌7月場所では、横綱・大関陣との対戦が続いた7日目までは1勝6敗という成績だったものの、8日目以降は白星を重ねて、最終的には8勝7敗と勝ち越しを決めた。翌9月場所では新三役となる東小結へと昇進し、ブルガリア出身力士としては2005年3月場所における琴欧州(現・琴欧洲)に続く2人目の新三役となり、初土俵から所要18場所での新三役昇進は曙と並ぶ史上7位のスピード記録(幕下付け出しを除く)となった。新三役昇進が決定した際の会見では、前師匠の田子ノ浦親方の遺影を持って会見に臨んだ。その9月場所では初日から7連敗と不振で、4勝11敗という成績に終わった。翌11月場所では8日目まで6勝2敗と好調だったものの、8日目に勢を破った際に左膝の関節を捻挫してしまい、翌9日目から途中休場した。(碧山亘右 フレッシュアイペディアより)