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  • 津守小黒栖

    津守小黒栖から見た下野国下野国

    津守 小黒栖(つもり の おぐるす、生没年不詳)は、奈良時代の防人・歌人。下野国の人。姓は宿禰。下野目・津守首古の子とする系図がある。津守小黒栖 フレッシュアイペディアより)

  • 大中臣諸魚

    大中臣諸魚から見た下野国下野国

    宝亀2年(771年)皇后宮少進に任ぜられたのち、同年7月に右衛士大尉に転じ、宝亀6年(775年)中衛将監を経て、宝亀7年(776年)従五位下・衛門員外佐に叙任される。その後も、宝亀8年(777年)衛門佐、宝亀10年(779年)中衛少将、宝亀11年(780年)右衛士佐と武官を務める一方、備前介・下野守と地方官を兼ねている。大中臣諸魚 フレッシュアイペディアより)

  • 葛飾県

    葛飾県から見た下野国下野国

    このため、1868年(慶応4年)5月7日、政府は応急措置として佐賀藩主・鍋島直大を下総野鎮撫府に任命し、下総国葛飾郡古河宿(現在の茨城県古河市)に派遣して下総国・下野国の両国を監督させた。だが当時、下野国内では旧幕府軍との戦いが継続されており、5月17日には真岡の幕府代官・山内源七郎が突如、佐賀藩兵に捕らえられて処刑されるなど緊迫していたため、下総国内にまで手が回らなかった。6月には下総野鎮撫府が宇都宮城に移転している。一部の佐賀藩兵は駐屯したものの、支配下に服した下総諸藩が暫定的に管理している状況であった。葛飾県 フレッシュアイペディアより)

  • 高久靄崖

    高久靄崖から見た下野国下野国

    下野那須郡杉渡戸(現 栃木県那須塩原市黒磯)に生まれる。諱は徴、字は遠々のちに子遠、通称秋輔。号は靄厓のほかに石窟、如樵、石窠学、梅斎、疎林外史、学梅斎、晩成山房など。高久靄崖 フレッシュアイペディアより)

  • 柿岡藩

    柿岡藩から見た下野国下野国

    寛永元年(1624年)、常陸国新治郡柿岡をはじめ、上野や下野において5000石の知行を領していた稲葉正勝は、常陸国真壁郡に5000石を加増されて1万石の大名となり、柿岡藩が立藩した。正勝の父は小早川秀秋に仕えた家老・稲葉正成。母は稲葉重通の養女で、正勝自身も徳川家光に仕えていたことから加増を受けたのである。柿岡藩 フレッシュアイペディアより)

  • 諸川宿

    諸川宿から見た下野国下野国

    慶長5年(1600年)、徳川家康の会津出兵では、山内一豊が諸川に宿陣しており(『山内家史料一豊公記』)、このころには町屋が整備されていたことが分かる。このとき、山内一豊は妻から大坂・石田三成方の情勢を知らせる「笠の緒の密書」を受け取り、下野・小山に在陣中の徳川家康に届けることで、家康の信頼を得た。その後の立身のきっかけとなった場所でもある。諸川宿 フレッシュアイペディアより)

  • 烏山藩

    烏山藩から見た下野国下野国

    烏山藩(からすやまはん)は、下野国那須郡烏山(現在の栃木県那須烏山市城山)に存在した藩。藩庁は烏山城に置かれた。また、大久保家が藩主となった享保年間以降は相模国の鎌倉郡・高座郡・大住郡・愛甲郡の一部も支配し、愛甲郡厚木町(現神奈川県厚木市)に厚木役所(厚木陣屋)を置き、相模国内支配の拠点とした。烏山藩 フレッシュアイペディアより)

  • 蓮華院 (徳川家康側室)

    蓮華院 (徳川家康側室)から見た下野国下野国

    蓮華院(れんげいん、天正14年(1586年) - 正保4年9月11日(1647年10月8日))は、徳川家康の側室。後に下野国小山藩主・本多正純の継室。名は梅。父は豊臣家家臣である青木一矩。家康の外祖母である華陽院は叔母にあたる。蓮華院 (徳川家康側室) フレッシュアイペディアより)

  • 宇都宮仕置

    宇都宮仕置から見た下野国下野国

    天正18年(1590年)7月13日、関東に台頭していた相模国の後北条氏を小田原城にて降伏させた豊臣秀吉は、同17日に鎌倉に入り鶴岡八幡宮を参詣する。鎌倉への滞在は2日間のみで、同19日には鎌倉を出立、6日後の7月25日に下総国結城城に入って、自身の養子になっていた秀康(徳川家康の次男)を結城氏の養嗣子にすることや同氏に小山氏・壬生氏などの旧領が与えられることが正式に決められ、翌7月26日に下野国宇都宮城に入城した。宇都宮での秀吉の滞在期間は合計11日間に達し、会津への巡察行軍を行って再び宇都宮に入城するまでの8月4日から同14日まで10日間を含めると、その期間は20日間にも及んだ。なお、帰途は8月20日には駿府城に入城していることから、翌15日には宇都宮を出立したとみられている。秀吉が宇都宮での滞在期間が長期に亘った理由として、公的には折からの長雨のためとされているが、26日の秀吉の宇都宮着陣に先立ち、既に常陸の佐竹義宣、南部の南部信直が宇都宮入りしており、また秀吉が宇都宮に着いた翌々28日には伊達政宗が奥州への迎えの為として宇都宮入りするなど、関東、奥羽の大名達が宇都宮に出頭しているため、秀吉の宇都宮城滞在中の時点で奥州仕置は方針はほぼ決定されていたとみられている。また、7月13日の時点で秀吉傘下の五奉行のうち増田長盛配下が先に宇都宮に着いており、宇都宮城を接収していたとも云われている。当時、宇都宮城は宇都宮氏の勢力下にあったが、宇都宮氏は居城を多気山城に移していたため政治的摩擦は殆ど無かったと云われている。ほか、宇都宮には秀吉着城前までに金森長近や京極高次らの豊臣家臣も駐留していた。宇都宮仕置 フレッシュアイペディアより)

  • 紀有常

    紀有常から見た下野国下野国

    清和朝では、貞観7年(865年)刑部権大輔を経て、下野権守・信濃権守と東国の地方官を務めた。貞観15年(873年)正五位下と18年ぶりに昇叙され、貞観17年(875年)雅楽頭として京官に復す。貞観18年(876年)従四位下に昇叙され、翌貞観19年(877年)正月に周防権守と地方官に任ぜられるが、同月23日に卒去。享年63。最終官位は従四位下行周防権守。紀有常 フレッシュアイペディアより)

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