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双大竜亮三から見た栃煌山雄一郎
夏場所の前相撲で新序出世を果たし、翌名古屋場所は東序ノ口40枚目で全勝優勝、1場所で東序二段33枚目に昇進、秋場所も6勝1敗で続く九州場所では東三段目70枚目へ昇進、その場所でも7戦全勝で、優勝決定戦では影山に敗れ優勝は逃したものの、翌2006年初場所で東幕下45枚目へ昇進と、順調に昇進していた。2006年、6場所中4場所で勝ち越すものの、最高で5勝2敗とそれまで三段目以下で見せたほどの勢いはなく、幕下中位から下位に留まる。2007年、いずれも4勝3敗の成績ではあったものの、初場所から3場所連続で勝ち越し、名古屋場所では自身最高位の東幕下10枚目の地位まで昇進するが、場所前に発生した時津風部屋力士暴行死事件や右肘手術の影響もあり、その場所から3場所連続で負け越し、再び幕下中位に番付を下げる。(双大竜亮三 フレッシュアイペディアより)
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木村玉光 (16代)から見た栃煌山雄一郎
また、千秋楽の前頭5枚目勢?関脇栃煌山戦でも、栃煌山が勢を上手投げで下した際、逃げ場を失い転倒したが、起き上がって軍配を栃煌山に上げた。(木村玉光 (16代) フレッシュアイペディアより)
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北の湖敏満から見た栃煌山雄一郎
2015年11月場所も初日の挨拶を欠席。11月18日、17日に行われた場所10日目の取組で白鵬が栃煌山に猫だましを行ったことに対して苦言を呈したが、これが生前最後となる北の湖のメディア上での発言となった。その11月場所最中の11月19日夜に、持病の貧血の症状を示す。翌11月20日朝に救急車で福岡市の済生会福岡総合病院に搬送されて緊急入院し、点滴治療などを受けていたが、直腸癌による多臓器不全のため同日午後6時55分に死去した。。現職の日本相撲協会理事長の死去は、1968年12月の時津風理事長 (元第35代横綱・双葉山)に次いで2人目であり、本場所中での理事長の死去は大相撲史上初であった。(北の湖敏満 フレッシュアイペディアより)
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幕下付出から見た栃煌山雄一郎
また、翌場所の下田の番付は西幕下3枚目で5勝2敗だった影山の東筆頭より下の西筆頭であったことから、結果として幕下15枚目格での全勝は上位での勝ち越しに劣る扱いとなった。幕下付出は「真に実力のある者はすぐに関取に昇進できるように優遇」する制度であるものの、この件により、幕下15枚目格付出は番付編成上は幕下15枚目より劣ることが既成事実となり、16枚目よりは上だが15枚目よりは下、言うならば15.5枚目のような位置づけになることが明確となった。ただし、審判部は「番付は生き物」という見解を示しており、今後も勝敗のほか十両力士の成績および十両以上の引退力士数との兼ね合いや相撲内容などによって基準が変動することも考えられる。(幕下付出 フレッシュアイペディアより)
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北勝海信芳から見た栃煌山雄一郎
2012年の役員改選で理事に当選し、広報部長、指導普及部長、危機管理部長、博物館運営委員に就任。同年5月場所にて優勝争いの先頭を並走した栃煌山の千秋楽の対戦相手に決まっていた琴欧洲が当日になって休場届を出し不戦勝を与えることがわかった際には「優勝に関わる相撲で大関が休場してこんな形になっては観客に申し訳ない、昨晩のうちにわかっていれば割り返しで対応できたのに、今日になってからでは遅過ぎる。こんなことでは本人も師匠も自覚が足りないと言われても仕方がない。協会の危機管理能力も問われかねない事態だ」と苦言を呈していた。実際栃煌山不戦勝の場内放送から勝ち名乗りまでの間国技館内はブーイングの嵐だった。(北勝海信芳 フレッシュアイペディアより)