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  • 徳瀬川正直

    徳瀬川正直から見た桐山部屋桐山部屋

    ?瀬川 正直(とくせがわ まさなお、1983年8月6日 - )は、モンゴル・ウランバートル出身(2009年7月場所から出身地をオブス県に変更、出生地はウランバートル)で桐山部屋(引退時は朝日山部屋)に所属した元大相撲力士。本名はバダムサンボー・ガンボルド。身長189cm、体重156kg。得意手は右四つ、寄り 。最高位は西前頭筆頭(2011年2月28日発表順席による)、血液型はB型、大相撲八百長問題にて引退勧告処分を受け、引退した。徳瀬川正直 フレッシュアイペディアより)

  • 早瀬川修一

    早瀬川修一から見た桐山部屋桐山部屋

    早瀬川 修一(はやせがわ しゅういち、1976年7月16日 - )は、愛知県田原市出身で桐山部屋(入門時は大鳴戸部屋)に所属する現役大相撲力士である。本名は山田 泰作(やまだ たいさく)。身長178cm、体重148kg。得意手は突き、押し。最高位は西幕下18枚目(2008年5月場所)。早瀬川修一 フレッシュアイペディアより)

  • 秀男 (呼出)

    秀男 (呼出)から見た桐山部屋桐山部屋

    秀男(ひでお、1949年12月28日 - )は、大相撲の呼出。本名は山木秀人。伊勢ヶ濱部屋、桐山部屋を経て現在は朝日山部屋所属。血液型はA型。秀男 (呼出) フレッシュアイペディアより)

  • 佐ノ山部屋

    佐ノ山部屋から見た桐山部屋桐山部屋

    弘化3年(1846年)11月から宮城野部屋の元幕下総ヶ関荒五郎が襲名して部屋を興すが、弟子の大成を見ずに死去した。所属力士は桐山部屋へ移籍した。その中に後の幕内佐野山幸吉がいた。佐ノ山部屋 フレッシュアイペディアより)

  • 式守勘太夫 (9代)

    式守勘太夫 (9代)から見た桐山部屋桐山部屋

    9代式守勘太夫(しきもりかんだゆう 1942年8月17日-)は大相撲の元三役格行司。伊勢ヶ濱部屋→桐山部屋所属。式守勘太夫 (9代) フレッシュアイペディアより)

  • 式守鬼一郎

    式守鬼一郎から見た桐山部屋桐山部屋

    6代 旧名は式守脩。2006年3月の十両格昇進と同時に鬼一郎を襲名した。本名は和智修。大鳴戸部屋に入門し、桐山部屋へ移籍した後、現在は追手風部屋に所属。式守鬼一郎 フレッシュアイペディアより)

  • 和晃敏郎

    和晃敏郎から見た桐山部屋桐山部屋

    2006年11月場所中に現役時代、和晃の兄弟子であった元大関・清國の7代伊勢ヶ濱が定年を迎える事になった。伊勢ヶ濱部屋は後継者候補が少なかったため、誰が部屋を継承するのか注目されていたが、唯一の部屋付き親方であった10代若藤(元和晃)が師匠と名跡を交換し伊勢ヶ濱部屋を継承した。しかし、8代伊勢ヶ濱を襲名した元和晃自身も当時64歳で僅か9ヵ月後の2007年8月には停年を迎えるため、直ちに後継者擁立を進めた。だが、翌2007年1月場所後に後継者擁立断念を表明。同時に伊勢ヶ濱部屋を解散し、所属する力士・行司らは一門の桐山部屋と高嶋部屋に移籍させた。自身は桐山部屋に移籍し、部屋付きの親方として後進を指導した。退職直前の同年8月3日には再度、元清國と名跡交換を行い、12代若藤を再襲名し、定年を迎えた。和晃敏郎 フレッシュアイペディアより)

  • 荒馬大五郎

    荒馬大五郎から見た桐山部屋桐山部屋

    荒馬大五郎(あらうま だいごろう、1793年5月5日 - 1849年7月16日)は、下総国千葉郡馬加村(現在の千葉県千葉市花見川区幕張)出身で桐山部屋、大坂相撲の小野川部屋所属の元大相撲力士。最高位は関脇。2代目年寄宮城野を襲名。身長197cm、本名は川島重美(紋重郎)。荒馬大五郎 フレッシュアイペディアより)

  • 照瀬川邦昭

    照瀬川邦昭から見た桐山部屋桐山部屋

    照瀬川 邦昭(てるせがわ くにあき、1979年7月5日 - )は、大相撲の桐山部屋に所属していた元大相撲力士。本名・正代 邦明(しょうだい くにあき)。熊本県熊本市出身。身長177cm、体重127kg。血液型はB型。得意手は右四つ、寄り、押し。最高位は東幕下43枚目。現在は警視庁巡査。照瀬川邦昭 フレッシュアイペディアより)

  • 斉須稔

    斉須稔から見た桐山部屋桐山部屋

    中学3年生の時上京して伊勢ヶ濱部屋に入門し、1971年7月場所で初土俵を踏んだ。以来時間は掛かったものの、着実に番付を上げて行き、1978年9月場所では東幕下3枚目の地位で幕下優勝を果たした。翌11月場所、十両に昇進。その場所は9勝6敗と勝ち越し、いきなり十両の上位まで番付を上げ、入幕を期待された。ところが6勝9敗と負け越し、それ以降は十両下位と幕下を往復する生活が続き低迷した。さらに番付運も悪く1980年5月場所では東十両11枚目で7勝8敗・1点負け越しという成績ながら、下に2枚番付が有るにもかかわらず、翌7月場所では幕下に落とされている。しかし、その場所を4勝3敗と勝ち越し1場所で十両に復帰してからは十両上位でも成績が残せるようになり、1982年3月場所で新入幕を果たした。一時は幕内に定着し、1983年11月場所では最高位の東前頭2枚目に番付を上げた。だが、四つ相撲とも突き相撲ともいえない中途半端な相撲が多かったためこの場所は5勝10敗と大きく負け越し、三役昇進はならなかった。そして、1984年3月場所を最後に十両に陥落。以後も幕内復帰を目指して相撲を取り続けたが、1985年9月場所では幕下にまで陥落した。同場所は勝ち越し、1場所で十両に復帰したものの全盛期のような相撲は全く取れず、1986年1月場所で再度幕下に落ちた。以降は関取復帰成らず、同年9月場所を最後に30歳で引退。序ノ口に付いてから引退するまでの約15年間、一度も休まず、「919回連続出場」という記録を残している。当時、年寄名跡の空きが無かったため、引退後は世話人に転身した。幕内経験者が世話人に転身したのは、王湖、琴千歳に続いて3人目である(琴千歳は、後に若者頭に転属)。世話人就任後は、引退時の四股名である「寶國」(たからくに)を名乗っていたが、1991年11月場所より本名の「斎須」に改めている。現在は伊勢ヶ濱部屋消滅に伴い、桐山部屋→朝日山部屋に移籍している。斉須稔 フレッシュアイペディアより)

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