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渡辺智男から見た桑田真澄
3年春に選抜高校野球大会に出場し、これが同校初の全国大会となった。渡辺自身を含めチームは1回戦突破を目標としていたが、抽選の結果、初戦の相手はチーム打率が4割を超す東海大浦安となった。しかし1回表に渡辺の本塁打で先制して流れをつかみ、5対1で勝利。これによってチームの緊張が解け、落ち着いてプレーできたという。準決勝では清原和博、桑田真澄らを擁するPL学園と対戦。伊野商が初出場だった事もあり、下馬評では圧倒的有利だったPL側は投手対策を特に立てておらず、渡辺が清原を3三振に封じ込めるなどわずか1失点の好投で勝利した。決勝の対帝京戦では自ら本塁打を放ち、小林昭則との投げ合いを13奪三振の完封で制して優勝した。(渡辺智男 フレッシュアイペディアより)
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ドリフのクリスマスプレゼントから見た桑田真澄
野球選手ゲストは水野雄仁と桑田真澄(ともに当時読売ジャイアンツ投手)で、この年セ・リーグ優勝を果たしている。(ドリフのクリスマスプレゼント フレッシュアイペディアより)
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中山裕章から見た桑田真澄
高知商高では1年生の時、夏の甲子園に津野浩の控え投手として出場。準々決勝に進出し、桑田真澄・清原和博(KKコンビ)のいたPL学園との対戦で、津野をリリーフして甲子園に初登板するが、9-10の接戦で敗れた。3年生となった、エースとして夏の甲子園に再度出場したが、準々決勝でまたもPL学園の桑田と投げ合い、3-6で敗退、ベスト8で終わった。同年秋、第40回国民体育大会高等学校野球競技優勝の原動力となった。この時の控え投手に1年下の岡林洋一がいる。また、大洋時代の監督・須藤豊は高校の大先輩にあたり、阪神タイガースの藤川球児は中学校・高校の後輩である。(中山裕章 フレッシュアイペディアより)
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日本の高校野球から見た桑田真澄
現在、1人の選手が甲子園に出場できる回数は最大5回まで。しかし、学制改革前は旧制中学が5年制のため6回以上甲子園に出場することが可能であり(ここには学制改革が行われた直後の高校生を含む)、理論上は1人の選手が9回出場することが可能だった。1人の選手による最多出場回数は小川正太郎(和歌山中、現・和歌山県立桐蔭高校)の8回が最高。学制改革後に、5回すべてに出場した選手は荒木大輔(早稲田実・1980年〜1982年、のちヤクルトスワローズ)、小沢章一(早稲田実・1980年〜1982年、荒木と同期の選手)、清原和博(PL学園・1983年〜1985年、のち西武ライオンズ他)、桑田真澄(PL学園・1983年〜1985年、のち読売ジャイアンツ)、梅田大喜(明徳義塾・2002年〜2004年)、鶴川将吾(明徳義塾・2002年〜2004年)、道端俊輔(智弁和歌山・2009年〜2011年)などがいる。(日本の高校野球 フレッシュアイペディアより)