238件中 11 - 20件表示
  • 逃亡者 木島丈一郎

    逃亡者 木島丈一郎から見た梅宮辰夫梅宮辰夫

    山城(元刑事で木島の先輩、青森在住) - 梅宮辰夫逃亡者 木島丈一郎 フレッシュアイペディアより)

  • 城卓矢

    城卓矢から見た梅宮辰夫梅宮辰夫

    1966年(昭和41年)1月、城卓矢と改名、心機一転して『骨まで愛して』をリリース、140万枚を売り上げる大ヒットを飛ばして有名歌手の仲間入りを果たす。同曲を原作に川内が脚本を書き、日活が渡哲也を主演に映画『骨まで愛して』を製作、城も本人役で出演し、同年7月9日に公開された。引き続き同年リリースした『あなたの命』でも、同様に作詞の川内の脚本で映画化され、城も出演している。同年12月31日に東京宝塚劇場で行われた第17回NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。1967年(昭和42年)5月にはカントリー&ウェスタン調の『トンバで行こう』をリリース、同年から翌1968年(昭和43年)にかけて東映東京撮影所製作の梅宮辰夫主演ものの映画に出演、いずれも助演した。楽曲には他にも森進一『おふくろさん』とは同名異曲の『おふくろさん』や、『夜のブルース』などがある。城卓矢 フレッシュアイペディアより)

  • ポルノ映画

    ポルノ映画から見た梅宮辰夫梅宮辰夫

    東映ポルノは時代的にヤクザ映画や実録映画と併映されたが、1973年頃から営業成績が急落し1974年2月に公開した多岐川裕美の主演デビュー作として知られる『聖獣学園』(監督:鈴木則文)は「想像できない不入り」で、「ストリップ映画は所詮キワモノだよ!」と岡田社長が宣言しこの年6月に公開されたシャロン・ケリーと梅宮辰夫のセックス戦が展開される『色情トルコ日記』(監督:山口和彦)をもって撤退を表明した。しかしヒット作のロングラン態勢確立のため、ポルノ作品を3週目以降の併映に加えたり、春休みや夏休みに展開した「東映まんがまつり」や「特撮大会」を早く切り上げて大人向け番組を欲しがる下番線(地方館)のために「300万(製作費)映画」の独立プロの「ピンク映画」を模倣した「500万(製作費)映画」(東映ニューポルノ)が作られた。1970年代後半、角川映画と組んで「大作1本立て」を始めるまでは散発的に主に二番館向けとして「東映ポルノ」は製作が続いた。東映本体は1979年の『天使の欲望』(監督:関本郁夫)をもってポルノから一応再撤退したものの、1980年代半ばまで関連会社の東映洋画を通して洋ピン(ピンク洋画)を、東映セントラルフィルムを通して獅子プロダクション作品などのピンク映画を買取配給した。東映ポルノはスケバンもの、猟奇ミステリー、時代劇などとのジャンル・クロスオーバー的なものが多数を占めているのが特徴で、日活の団地妻もののようにポルノ自体を第一命題として企画されたものは少ない。これらの成人映画には当時れっきとした大スター、または成長株であった丹波哲郎、天知茂、梅宮辰夫、渡瀬恒彦らが当然のような顔で出演しているが、これらの出演歴が別段話題になることがない点も日活との大きな違いである。ポルノ映画 フレッシュアイペディアより)

  • 路加奈子

    路加奈子から見た梅宮辰夫梅宮辰夫

    明けて1967年(昭和42年)2月23日には、満1年ぶりに松竹映画に出演した『雌が雄を喰い殺す かまきり』(監督井上梅次、主演岡田茉莉子)が公開されている。同年5月20日に公開された『決着』は、石井輝男が監督、梅宮辰夫が主演した東映東京撮影所であるが、これにも路は出演している。同年9月2日に公開された『夜のひとで』(監督長谷和夫、主演三田佳子)以降、松竹作品への出演記録は見当たらない。同年10月以降の情報が掲載されている『映画年鑑 1968』の人名録俳優欄には、路の名が松竹所属として掲載されており、渋谷区富ヶ谷町の住所が記載されていた。1968年(昭和43年)には、ふたたび武智鉄二による成人映画『戦後残酷物語』に主演しており、同作は同年2月10日に大映が配給して公開された。同年にはローヤルレコード(代表・安田英治)に所属し、同年11月、シングル『夜の虫』を発表した。路加奈子 フレッシュアイペディアより)

  • 東映ポルノ

    東映ポルノから見た梅宮辰夫梅宮辰夫

    日本の於ける"不良グループ"ものの先駆は、やはり岡田が梅宮辰夫を売り出すため、マーロン・ブランドの主演映画『乱暴者』などをヒントに作らせた1968年から始まる『不良番長』シリーズといわれるが、『不良番長』シリーズのヒットに目を付け、その女性版を作ったのは東映が最初ではなく、日活が1969年に作った『女番長 仁義破り』(長谷川照子主演・江崎実生監督)。これを皮切りに日活は1970年『野良猫ロック』をシリーズ化して突如女番長ブームが起きた。この『野良猫ロック』シリーズは第1作のみホリプロが製作した関係で主演が和田アキ子で、2作目から5作目が梶芽衣子だった。梶はこの後、東映に移籍するが『野良猫ロック』シリーズには東映で当てた『女囚さそりシリーズ』の萌芽が見られる。東映も『野良猫ロック』シリーズと同時期に東撮で大信田礼子主演『ずべ公番長』シリーズを、京撮で大原麗子、夏純子、市地洋子主演で『三匹の牝蜂』(1970年6月公開)を製作。東映の女番長映画は、岡田が「石井輝男のエログロ映画が終わり、ヤクザ映画以外にもう1本ラインがないと興行が弱い、若者のラインを何とか確立したい」と号令をかけシリーズ化させた。東映の番長映画は、男版も女版も岡田の企画。『三匹の牝蜂』は、中島貞夫が脚本を担当しており、中島の1966年の映画『893愚連隊』との類似性も指摘され、住所不定、無職のチンピラ娘三人が、万博で賑わう大阪を舞台にウロチョロ悪事をやらかし、やがて暴力団と真正面からぶつかる話で、「スケバン」「女番長」という設定でこそないが"スケバンもの"の一つといえる。ここでのピチピチした若い女たちの活躍ぶりが1970年9月公開の『ずべ公番長』シリーズに引き継がれる。同シリーズは、大信田ら、ずべ公たちが毎回ビキニ、ミニスカ、ホットパンツなど、流行のハレンチファッションに身を包み"元祖コスプレ"とも評される。同シリーズは、二作目以降、どんどんエロ要素は希薄となり、ずべ公たちによる男顔負けの荒っぽい女の活劇映画に変化した。その後女番長シリーズは池玲子や杉本美樹、山内えみこらが主演して多数製作されるが、1970年10月27日公開の『女番長ブルース(すけばん) 牝蜂の逆襲』で初めて"女番長"をすけばん(スケバン)と読ませた。"すけばん(スケバン)"という言葉が映像作品で用いられたのはこれが最初。封切り時の映画ポスターに「女番長」の下に"すけばん"とルビが振られている。これ以前の他社の『女番長〇〇』という映画は、"女番長"と書いて"おんなばんちょう"と読んでいた。元は岡田が命名した『牝蜂の逆襲』というタイトルで製作を進めていたが、当時の取材中に耳にした"スケバン"という言葉の鮮度は捨てがたいと監督の鈴木則文が"女番長"と書いて"すけばん(スケバン)"と読ませることを発案し『女番長(すけばん)ブルース 牝蜂の逆襲』というタイトルに変更したと話しているが、映画界を引退していた『女番長ブルース 牝蜂の逆襲』の助監督で脚本も担当した皆川隆之がインタビューで、「東京で『不良番長』をやっていたので『女番長』にして、そのまま読んでも語呂が悪いと、いろいろ考えて『スケコマシ』の『スケ』を使って『スケバン』にした」「ぼくの造語なんです」などと話し、『スケバン』という言葉を作ったのは自分と述べている。東映のスケバン映画は他社のスケバン映画と比べポルノ性が高かった。毛並みのいい映画会社・東宝も東映の女番長シリーズを研究し1972年『混血児リカ』(製作:近代映画協会、監督:中平康、脚本:新藤兼人、原作:凡天太郎)という珍品スケバン映画を撮った。女番長シリーズ7作目『女番長 玉突き遊び』(1974年公開)で、同作に主演する新人ポルノスター発掘に、東映と日本テレビの共催で、ポルノ女優テレビオーディションが開催され、三回に渡る審査を経て1973年7月7日、最終審査が日本テレビの『土曜イレブン』生放送で全国放送された。内容が内容だけに応募者も少なかったが、井原高忠、阿久悠、大竹省二、天尾完次、鈴木則文、多々良圭、荒木一郎ら審査員と司会者が、ブラジャーを取るのを強要したり、セクハラ質問を浴びせたり、現在ではまず有り得ない放送だったといわれる。合格者は佐分利聖子と叶優子だった。篠原とおる原作・杉本美樹主演の1974年『0課の女 赤い手錠』は (野田幸男監督)長い年月を掛けて再評価された。1971年に大映が消滅し日活もロマンポルノに移行するため、東映のみで"スケバン映画"の製作は続いたが、製作ペースが鈍ったのは、やはり岡田社長がブルース・リー映画を観て、カンフー映画ブームの到来を予測し、千葉真一や山下タダシ、志穂美悦子らを使って和製カラテ映画の製作を始めたことだった。これによりそれまでスケバン映画が独占してきた実録映画のB面番組枠を和製カラテ映画が奪ってしまった。カラテ映画がその後も『地上最強のカラテ』などのカラテドキュメンタリー路線まで、思いのほか長く続き"スケバン映画"は遂に浮上できなかった。出番を失った山内えみこらスケバン女優の多くはテレビ部門に送り込まれた。1977年『地獄の天使 紅い爆音』で1970年代の"スケバン映画"は終了したとされる。同作は売り出し中の歌手・内藤やす子の宣伝媒体に利用されたが、劇場公開と同時に内藤が大麻所持で逮捕され映画生命を絶たれた。その後"スケバン映画"は、1975年に連載が始まった和田慎二の漫画『スケバン刑事』を実写化したスケバン刑事が1980年代後半に東映でテレビドラマ化、映画化され大ブームを起こした。東映ポルノ フレッシュアイペディアより)

  • 仁義なき戦い 代理戦争

    仁義なき戦い 代理戦争から見た梅宮辰夫梅宮辰夫

    岩井信一 - 梅宮辰夫:明石組幹部。岩井組組長。広能とは兄弟分。明石組の切込隊長として山陽道にまで名前が響いている存在。原理主義者の実務家タイプ。広能とはウマが合うがヤクザの信念の問題として、仲間同士の流血沙汰を嫌う広能を批判し「山守造反」を勧告する。モデルは山本健一。演じた梅宮辰夫は最初眉毛をなくす為、眉に肌色の蝋を塗るというメイクをしていたが、汗が出ると蝋が溶けてしまうため眉毛を剃り落とす事にした。家に帰ると、当時産まれたばかりの長女・梅宮アンナがその形相に怯え泣き止まなかったという。仁義なき戦い 代理戦争 フレッシュアイペディアより)

  • トラック野郎

    トラック野郎から見た梅宮辰夫梅宮辰夫

    この他、第2作では杉本千秋(演:加茂さくら)と赤塚周平(演:なべおさみ)をジョナサンと共に取り持っている。また、ライバルとの喧嘩の結果、第3作では浜村涼子(演:土田早苗)と大熊田太郎次郎左衛門(演:梅宮辰夫)の、第5作では江波マヤ(演:夏樹陽子)新村譲治(演:千葉真一)の橋渡し役ともなっている。トラック野郎 フレッシュアイペディアより)

  • 岡田茂 (東映)

    岡田茂 (東映)から見た梅宮辰夫梅宮辰夫

    ギャングシリーズを開拓したものの「そもそも日本にギャングなどいない」と、東映を『時代劇』路線から俊藤浩滋と組んで『人生劇場 飛車角』を初めとする任侠映画路線に転換させる。日活、大映、東宝など他社も追随した。他社はテレビに食われて生き詰まってしまったが、“任侠路線”だけは、テレビに食われることもなく、当たりに当たった。それに合わせるように、岡田は新たに土曜深夜のオールナイト興行という上映方式を組み、これに観客が押し寄せ、任侠映画は70年安保に向けて学生運動の盛り上がりとともに、高度経済成長・管理社会に疎外感を抱く学生やサラリーマンを中心に熱狂的ブームを起こした。東宝、松竹は戦前から不動産を持っていたので、生きのびることが出来たが、戦後派で不動産もない東映が勢いを増したのは岡田の切り替え戦略によるもの。任侠映画と後に手掛ける実録ヤクザ映画抜きに1960年代から1970年代の日本映画は語れない。岡田の仕掛けた“任侠路線”〜“実録路線”は、その後『日本の首領』や、『鬼龍院花子の生涯』などの「女性文芸路線」、『極道の妻たち』シリーズに、先の“現代アクション”“ハードアクション路線”は、『キイハンター』『Gメン'75』や、『ビー・バップ・ハイスクール』や『極道渡世の素敵な面々』などの“ネオやくざ路線”に引き継がれ、後にVシネマという新ジャンルを切り開いていった。岡田は企画、製作のみに手腕を発揮したのではなく、その過程に於いて、宣伝面を考慮した側面においても抜群の力量を発揮した。特に1960年代、1970年代の『人生劇場 飛車角』『緋牡丹博徒』『大奥物語』など、任侠映画、東映ポルノ/エログロ映画のタイトルの大半は岡田が考えたものである。『大奥物語』の○の中に秘を書くマークは、今は一般的に使われるが、これも岡田が考えたもので、この影響を受けて、当時の新聞や週刊誌では「物語」という活字を多用した。「今ではどこの企業でも部外秘の書類にというハンコを押しているのだから、著作料をもらいたいぐらい」と話している。禁断の園には誰でも興味が沸くだろう、と考えたのが製作の切っ掛けだが山田五十鈴、佐久間良子、藤純子らスター女優を起用して大当たりした。『大奥物語』はブームを呼び、その後の大奥物は、この作品の衣装や小道具がモデルになり、エッセンスは受け継がれ、現在もテレビドラマ等に繋がる。1964年の『二匹の牝犬』では文学座の小川眞由美と六本木で遊んでいた緑魔子を組ませた。同年中島貞夫に命じて撮らせた『くの一忍法』は、山田風太郎原作の『くノ一忍法帖』最初の映像化。東宝から引き抜いて以来パッとしなかった鶴田浩二を『人生劇場 飛車角』で、燻っていた高倉健を『日本侠客伝』『網走番外地』で、若山富三郎を『極道』シリーズで、そして『不良番長』シリーズで梅宮辰夫を売り出す。筋金入りの清純派、佐久間良子の裸のシーンを売り物に田坂具隆監督で『五番町夕霧楼』を大ヒットさせた。本作は京の廓の内情を初めて公にした作品として話題を呼んだ。内田吐夢監督に撮らせた『飢餓海峡』(1965年)も岡田の企画。岡田茂 (東映) フレッシュアイペディアより)

  • 安岡力也

    安岡力也から見た梅宮辰夫梅宮辰夫

    シャープ・ホークスと並行して一時期は、ヘビー級とミドル級でキックボクサーをしており、4試合で3勝1敗の成績を残した。ただし相手は素人が多かったと自ら述べている。後に山上ボクシングスポーツジムの副会長も務めていた。1969年にグループ解散後は主に俳優として活動。東映では若山富三郎の派閥に属して、山城新伍の下についていた。仕事を干されていた時期に梅宮辰夫の口利きで梅宮主演映画『不良番長シリーズ』にレギュラー出演して以降、梅宮を兄貴分として信奉している。安岡力也 フレッシュアイペディアより)

  • 1975年のテレビ (日本)

    1975年のテレビ (日本)から見た梅宮辰夫梅宮辰夫

    30日 - フジテレビにて、日本各地から一品料理を紹介するミニ番組・グルメ番組『くいしん坊!万才』(キッコーマン一社提供)がこの日から放送開始。当初は複数のリポーターだったが、後に渡辺文雄→竜崎勝→友竹正則→宍戸錠→川津祐介→梅宮辰夫→村野武範→辰巳琢郎→山下真司→宍戸開がリポーターを務めたことで人気番組となり、2017年現在も松岡修造のリポーターで継続中。1975年のテレビ (日本) フレッシュアイペディアより)

238件中 11 - 20件表示

「梅宮辰夫」のニューストピックワード