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梅宮辰夫から見た茨城大学教育学部附属中学校
満州国ハルビン特別市(現在の、中国黒竜江省ハルビン市)に生まれ、終戦後品川区西戸越に引き揚げた。弟と妹それぞれ2人ずつの5人兄弟。実家は内科・小児科を診療科目とする梅宮医院で辰夫は跡継ぎとして期待されていた。茨城県水戸市に移り、茨城大学教育学部附属愛宕中学校では陸上競技選手を務めたが、同中学校の後輩として、ジャーナリストで評論家の立花隆がおり、立花とは後年、テレビ番組の企画で共演している。早稲田高等学校を経て、日本大学法学部中退。(梅宮辰夫 フレッシュアイペディアより)
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梅宮辰夫から見た遊星王子
大学在学中に銀座でスカウトされ、1958年(昭和33年)、東映のニューフェイス5期生に合格。翌年映画『少年探偵団 敵は原子潜航挺』シリーズでいきなり主演デビュー。新人時代は他に『遊星王子』等子供向けヒーロー映画に主演していた。以後は二枚目スターとして多くの主演映画が作られるも伸び悩むこととなる。すっかりかつての好青年ぶりが影を潜めてしまった1965年(昭和40年)には『ひも』『いろ』『だに』『かも』などの主演作品同様に私生活でも銀座と歌舞伎町で夜の帝王といわれるほど非常な遊び人としての素行不良が取り沙汰され、さらにそれらの放蕩生活と加齢による形相の変化で、東映の首脳部からは問題児としてお荷物扱いされるまでになっていた。(梅宮辰夫 フレッシュアイペディアより)
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梅宮辰夫から見た不良番長
そこで東映の岡田茂社長はピーター・フォンダの主演映画『ザ・ワイルド・エンジェルス』や、同時期のアメリカ映画『地獄の天使』をヒントに、日本でもオートバイを駆使した不良映画を製作しようと意気込む。それが1968年(昭和43年)から主演する事となる映画『不良番長シリーズ』だった。最初の数本こそシリアス・タッチだったものの、梅宮を軸にした集団コメディの色彩は回を重ねるごとに強くなり、後に公私共に盟友となる山城新伍がコメディリリーフとして加わってからは、ますます破壊的なギャグが繰り出されるシリーズとなっていった。しかし、この路線は観客の好評を得て、B面映画の傑作として16作も作られるシリーズとなった。続いて主演の『夜の歌謡シリーズ』もそこそこヒットし、更に1970年代からは『帝王シリーズ』を成功させ、個性派俳優としての地位を獲得してゆく事となった。(梅宮辰夫 フレッシュアイペディアより)
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梅宮辰夫から見たメルセデス・ベンツ Vクラス
料理にかける熱はかなりのものがある。エピソードとして、2001年2月13日、梅宮の運転手が仕事先の梅宮を迎えに行くため、梅宮の愛車であるメルセデス・ベンツV280(当時の販売価格で580万円)を渋谷区内の自宅近くのガソリンスタンドで給油中、カギを付けたまま休憩所に行き、戻るまでの数分間の間に車両盗難の被害に遭っているが、その記者会見では「ベンツはいいから(積んであった特注の)クッキングボックスだけは返してくれ」と訴えている(その後ベンツは発見されたが、クッキングボックスは持ち去られていた)。(梅宮辰夫 フレッシュアイペディアより)