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長島裕明から見た梶山陽平
FC東京がJリーグに加盟した1999年からはFC東京U-15の監督を務め、梶山陽平、吉本一謙、椋原健太、丸山祐市、権田修一、廣永遼太郎、鎌田次郎、染谷悠太、大竹洋平、宮阪政樹、井澤惇、岡田翔平、森村昂太、田中奏一、村田翔らを担当。また、三田啓貴、六平光成、藤原広太朗、山村佑樹、井上亮太、岩渕良太、宮澤勇樹らを発掘、2001年にはクラブユース選手権U-15で準優勝を経験した。2002年、リスボンで開催されたナイキプレミアムカップ世界大会6位。2003年から2005年まではFC東京U-18の監督を務め、梶山、呉章銀、李忠成をトップチームに送り出した。また、宮崎智彦、常盤聡らを担当。2006年からFC東京育成部部長代理に就き、この間にS級ライセンスを取得。(長島裕明 フレッシュアイペディアより)
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セバスティアン・レトから見た梶山陽平
2008年8月、ギリシャのオリンピアコスFCにレンタル移籍した。2008-09シーズンは24試合に出場した。ここでの活躍が評価され、2009年7月に同じギリシャのパナシナイコスFCへ移籍金130万ポンドの4年契約で完全移籍した。2013年1月、パナシナイコスは梶山陽平の加入に際し、外国籍枠(EU外の外国籍選手に充てられる)に空きを作るため、レトを放出した。(セバスティアン・レト フレッシュアイペディアより)
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上里一将から見た梶山陽平
背番号は前年に前田俊介が背負っていた背番号32を与えられる。この年のFC東京はJ2ながら日本代表の今野泰幸、権田修一、石川直宏をはじめ、徳永悠平、森重真人、高橋秀人、梶山陽平ら実力者を擁し、Jリーグ全体としても屈指の戦力を有していた為に激しいポジション争いを強いられた。シーズン開幕前のキャンプでは左サイドハーフ、左サイドバックとしての適性も見せたが、リーグ戦が始まるとこれらのポジションでは、前年にセリエAに移籍した長友佑都の穴を埋める活躍を見せていた中村北斗や、若手の田邉草民、椋原健太が主力として起用された。一方、監督の大熊清からは中盤での展開力を買われ主にセグンド・ボランチ(攻撃型ボランチ)として梶山陽平らとポジションを争った(梶山を前線に押し上げる形での併用もあった)。リーグ戦では開幕戦以外の全試合にベンチ入りを果たし、出場時間こそ多くなかったものの起用された試合では期待に応える働きを見せ、チームがJ1昇格を決めた11月19日のJ2第36節鳥取戦では後半ロスタイムに移籍後初ゴールを挙げるなどJ2優勝に貢献した1人となった。また、同年開催の天皇杯でも2回戦以降の全試合にベンチ入りし、チームは優勝を果たすが上里の試合出場は適わなかった。シーズンオフの2012年1月10日にFC東京から上里の移籍期間満了が発表され、同日、徳島ヴォルティスに期限付き移籍する事が所属元の札幌・徳島双方から相次いで発表された。(上里一将 フレッシュアイペディアより)
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冨田賢 (サッカー指導者)から見た梶山陽平
FC東京U-15、同U-18でプレー。同期には梶山陽平、呉章銀、李忠成、斎藤雅也、鎌田次郎、眞行寺和彦らがいた。2004年慶應義塾大学に進学し、同大ソッカー部に加入。4年次には主将を務める。2008年ザスパ草津U-23に加入。2010年シーズン終了後退団し、翌2011年より慶應義塾大学ソッカー部コーチ就任。(冨田賢 (サッカー指導者) フレッシュアイペディアより)