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ルーカス・セベリーノから見た梶山陽平
日本語を話すことができる。本人曰く、訪日2年目で話の内容が分かるようになり、5年目でマスター。試合後のインタビューなどではポルトガル語通訳を介して対応をするが、日本人選手との意思疎通には問題は無く、練習中などでは新加入のブラジル人選手の隣に行き通訳の役を買って出たり、日本での生活の面倒を見るなどの支援をしていた。2011年にFC東京の練習場を訪れた際には日本語で自己紹介をした上、通訳の飯野一徳には「来年は自分が通訳をやるよ」と冗談を言い、梶山陽平からは「昔よりうまくなっていた」と評価された。(ルーカス・セベリーノ フレッシュアイペディアより)
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米本拓司から見た梶山陽平
FC東京では、今野泰幸のセンターバックへのコンバートもあり、激戦区であるボランチに割って入ると、J1第9節大宮戦からスタメンに定着。梶山陽平とのダブルボランチを組み、7月には得意としていた守備に加えて「プレスを外せるところや、DFからボールを引き出す場所が分かってきた」とオフ・ザ・ボールの動きの向上にも自信を見せ、チームの連勝に貢献。梶山からも「(ボールを)つないで時間をつくれるようになった」と成長ぶりを認められた。7月12日の対名古屋戦では、視察に訪れた岡田武史日本代表監督の称賛を受けた。シュートは上手くないとしながらも「一生懸命練習」し、第24節対大分戦で、30メートル超のミドルシュートでリーグ戦初得点。ナビスコカップ決勝戦では、前半にペナルティエリア外からミドルシュートで先制点を決め、2-0の勝利に貢献。ニューヒーロー賞と史上最年少での決勝MVPを獲得した。Jリーグ技術委員長の上野山信行からは「豊富な運動量をベースに、相手の攻撃の芽を摘む鋭い守備力、的確な判断力に加え、攻撃面におけるゴールに向かう多彩な展開力は将来の日本代表の一翼を担える」と評価された。12月21日にはアジアカップ最終予選に向けたA代表に初招集され、対イエメン戦にフル出場。中盤の底を一人で支え、逆転勝利に貢献した。(米本拓司 フレッシュアイペディアより)
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平山相太から見た梶山陽平
2009年5月、城福からの「試合に出られそうなときとそうでないときで練習でのプレーにムラがある。サッカー選手は選手寿命が短いのだから時間の使い方がもったいないのではないか」との指摘や、NHKの番組にてプロ野球選手・小笠原道大(当時読売ジャイアンツ所属)の練習姿勢に感銘を受けた事などが重なり、「プロとしての自覚が足りないことに気付き、極限の努力をするべき」だと意識改革を試みる。以降は出場停止となった2試合を除き全試合にスタメン出場。6月20日のJ1第14節柏戦では身体の強さを活かし、チェックに来たDF小林祐三を吹き飛ばしてゴールを決めた。以降、ゴール量産こそならなかったが、体躯を活かしたプレーで貢献。このシーズン、15得点の活躍を見せた石川直宏からは「前に起点ができるおかげで、ぼくらが前に行ける。FWだからゴールに近い位置でプレーしたいはずなのに(ポスト役をこなしてくれる)」と平山のポストプレーなどを高く評価した。また、この頃から梶山陽平が「守備では本当に助かっている」と話すなど、運動量と守備意識に改善を見せている。城福からは「バイタルエリアからでも難しいパスを出すことができるが、シンプルなパスを出すところとの判断が甘い」と課題を挙げられている。11月3日のナビスコカップ決勝・川崎戦では後半にヘディングでゴールを決め、自身プロ入り後の初タイトル獲得に大きく貢献した。(平山相太 フレッシュアイペディアより)
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本田圭佑から見た梶山陽平
石川県選抜において、左SBの位置からステップなしでサイドチェンジを送る姿が大熊清U-20日本代表監督の目に留まり、2005年のFIFAワールドユース選手権・オランダ大会にU-20日本代表として招集され、負傷明けの梶山陽平に代わって初戦のオランダ戦に守備的な中盤として先発。しかし試合は前半にオランダが圧倒、後半は日本もペースをつかむ時間帯を得たが本田は途中交代となった(後半19分、水野晃樹。結果は1-2で敗戦)。この後チームは16強に進出するものの梶山の復調もあって出場機会はなかった。2006年にはフル代表にも初招集されたが出場はなかった。2007年北京オリンピックアジア予選では主力として五輪出場権獲得に貢献した。(本田圭佑 フレッシュアイペディアより)