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棚橋弘至から見たアマチュアレスリング
その後、プロ野球選手になる夢を諦めた棚橋は、プロ野球選手になれないならば、伝える側の新聞記者になることを考え、マスコミ関係に強そうな学部をいろいろ受けた結果、一般入試で立命館大学法学部に入学した。大学の授業初日、構内で新入生をサークルに勧誘するブースが数ある中で棚橋はプロレス同好会に入り、立命館大学プロレス同好会出身のプロレスラー第1号として活動を開始した。プロレス同好会に在籍する一方、アマチュアレスリング部にも参加していた棚橋は、1996年春に行われた新日本プロレスの入門テストを受け、与えられたメニューを全てこなしたが不合格。同年秋に2度目の入門テストを受けるも、体調不良による脱水症状に陥りメニューをこなすことができずここでも不合格となった。1998年2月に行われた3度目の入門テストでようやく合格を果たしたが、長州力より「大学は卒業はしておけ」と告げられ大学生活を継続。大学卒業後の1999年4月、晴れて新日本に入寮した。(棚橋弘至 フレッシュアイペディアより)
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棚橋弘至から見た全日本プロレス
2001年4月19日の後楽園大会にて復帰。欠場期間中のトレーニングにより足が太くなった棚橋は、それを強調するためにコスチュームを黒のタイツから赤のスパッツに変更。さらに髪型も長髪にして、ヤングライオン卒業を宣言した。5月18日後楽園大会から同期入門の鈴木健三(後に鈴木健想に改名)とタッグとして活動を開始。健三とのタッグはタナケンという愛称で親しまれていたが、6月22日よりタッグチーム名をキング・オブ・ザ・ヒルズ(King Of The Hills、略称 : KOTH)と発表した。9月8日に全日本プロレスの日本武道館大会で初めて新日本以外の団体に参戦、10月8日には東京ドーム大会の舞台に初めて足を踏み入れ、G1 TAG LEAGUEではKOTHとして初出場を果たすなど、様々な経験を積んでいく。KOTHは当時の新日本のいち若手としては珍しくストロングスタイルが連想されないライトなタッグであったことから注目を受けるようになり、次第に棚橋も新日本のトップ戦線に身を投じることとなる。(棚橋弘至 フレッシュアイペディアより)
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棚橋弘至から見たファレ・シミタイトコ
その後、G1優勝者に手渡される東京ドーム・IWGP王座挑戦権利証を獲得した棚橋は、G1公式リーグ戦で敗北したバッドラック・ファレ、内藤哲也を相手に権利書争奪戦として再戦。いずれも勝利を収めたことで、翌東京ドーム大会でオカダの保持するIWGP王座に挑戦することが決定した。(棚橋弘至 フレッシュアイペディアより)