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棚田から見た準平原
日本の稲作の適地は、安定した水利を得られることに加えて、流れていく用水の管理が容易にできる土地である。土地には元々傾斜があるが、傾斜が少な過ぎる土地、および排水しづらい土地は湿地となるため、安定した稲作を行うためには、一定の農学・土木技術が必要であった。また、灌漑をする場合はある程度の傾斜が必要であり、傾斜があまりにも少ない河川下流域の沖積平野は、江戸時代以前は稲作をするのに不適当であった。すなわち、近世以前の稲作適地は、比較的小規模で緩やかな沖積扇状地、小規模な谷地、あるいは小規模で扱いやすい地形が連続する隆起準平原上などが主力であり、いずれも河川の中上流域が中心であった。これらの土地は緩やかな高低差があり、一つ一つの田の間に明確な高低差が生じて広い意味での棚田を形成することになる。(棚田 フレッシュアイペディアより)
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棚田から見た用水
日本の稲作の適地は、安定した水利を得られることに加えて、流れていく用水の管理が容易にできる土地である。土地には元々傾斜があるが、傾斜が少な過ぎる土地、および排水しづらい土地は湿地となるため、安定した稲作を行うためには、一定の農学・土木技術が必要であった。また、灌漑をする場合はある程度の傾斜が必要であり、傾斜があまりにも少ない河川下流域の沖積平野は、江戸時代以前は稲作をするのに不適当であった。すなわち、近世以前の稲作適地は、比較的小規模で緩やかな沖積扇状地、小規模な谷地、あるいは小規模で扱いやすい地形が連続する隆起準平原上などが主力であり、いずれも河川の中上流域が中心であった。これらの土地は緩やかな高低差があり、一つ一つの田の間に明確な高低差が生じて広い意味での棚田を形成することになる。(棚田 フレッシュアイペディアより)
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棚田から見た財団法人
2005年(平成17年)11月の合併まで南牟婁郡紀和町。1993年(平成5年)からの復元事業で耕作放棄田の810枚(2.4ha)が復元された。地元農家が耕作する530枚(4.6ha)と合わせた棚田は1,340枚(7ha)。石垣で築かれたこの棚田の段数は、100段近くある。四分の一勾配(水平距離4m行って1m高くなる≒14度)という急傾斜で、上の田から下の田までの標高差は100mもある。1601年(慶長6年)の検地帳には2,240枚あったと書かれているという。棚田の維持・管理は丸山集落住民による千枚田保存会と財団法人紀和町ふるさと公社が関わっている。丸山集落は戸数33戸。住民の平均年齢は約70歳。農作業は、集落住民と守る会会員、棚田オーナー(113組・517人)が参加する。(棚田 フレッシュアイペディアより)
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棚田から見た東海地方
一方、東海地方北陸地方以東の東日本は、比較的広い沖積平野に恵まれていた上に、太平洋側を中心に低開発状態の洪積台地や河岸段丘面の農地開発の余地が大きく、日本海側を中心に扇状地でも開発の余地が広く存在したため、江戸時代に至っても、急峻な山地の傾斜面を切り開いて棚田をつくるまでに至らなかったところが多く、棚田はあまりつくられないか、つくられた場合でも畔や土手は傾斜が緩やかな土盛りとなり、西日本とは対照的な棚田風景となった。なお、東日本・西日本に関わらず、漁港の適地が海沿いの山に囲まれた入り江であることも多かったため、漁港から離れた平地の領地争いに敗れた漁村では、漁港近くの山に漁民の主食用の棚田がつくられる例がみられる。(棚田 フレッシュアイペディアより)