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篠山紀信から見た横尾忠則
『家』では、北海道から沖縄まで、日本列島約80カ所にのぼる「日本の家」の様々な様相が記録され、北海道、岩手県遠野の古民家をはじめとし、赤坂の迎賓館、台東区上野の古銭湯、横尾忠則がかつて住んでいた家、高輪の郷ひろみ邸、新宿のアパート、北九州の筑豊炭鉱、 沖縄県竹富島、長崎県軍艦島の廃墟や、廃墟となった家などが収められた。また、生家や4歳の時に1年弱疎開した埼玉の秩父にも30年余ぶりに母と連れ立って出掛け、幼少期の記憶の撮影が行われた。これは、篠山にとって「写真」というメディアを再確認する行為であったようで、懐かしさや個人的思い入れはあったとしても、それらは「写真」にあらわされるものではないし、その思いも見る者に伝わることはない。「私的」なことを表現したければ、「文学」でやればいいのだと篠山は語っている。翌1976年には、評論家多木浩二によってあらわされたテキスト『生きられた家』が単行本として刊行された。(篠山紀信 フレッシュアイペディアより)
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週刊少年マガジンから見た横尾忠則
「キッカイくん」の連載を機にエログロナンセンスが用いられるようになり、それにともない読者の対象年齢も上昇。さらに1970年には「アシュラ」「ワル」「メッタメタガキ道講座」など多くの問題作が登場。さらに横尾忠則を表紙のデザイナーに迎えるなど、マガジンは『ガロ』に近い青年向けの雑誌となり、現在までに至るマガジンのイメージがほぼ確立されはじめる。大学生の間で「右手に(朝日)ジャーナル左手にマガジン」と言われたこともあった12。この影響は大きく、神奈川県児童福祉審議会が1970年32号を有害図書に指定。その後は1971年に「巨人の星」、1973年に「あしたのジョー」が終了したことなどからマガジンの勢いは徐々に下降。「あしたのジョー」などに変わる新たな主力作品としては「空手バカ一代」「愛と誠」「おれは鉄兵」「釣りキチ三平」などがスタートし、新たに篠山紀信によるアイドルのグラビア記事を導入するも、部数は伸び悩み、1973年に『週刊少年ジャンプ』に発行部数首位の座を奪われた。このため1975年1号より創刊以来親しまれた誌名ロゴを初めて大幅に変更するなどのリニューアルを行い巻き返しを図ったが、低迷からは思うように抜け出せなかった。(週刊少年マガジン フレッシュアイペディアより)
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流行通信から見た横尾忠則
1966年5月10日、『森英恵流行通信』として創刊される。当時は森英恵のPR誌としての色合いが強かった。1969年には森英恵の名前を取り『流行通信』に誌名変更。PR誌から一般のファッション誌になる。以降ファッション誌としてだけではなく、アート・カルチャー誌としても評価され、ファッションという垣根を越えて多くのクリエイター達に影響を与えることになる。アートディレクターとして、横尾忠則・浅葉克己・長友啓典・高原宏・藤本やすし・服部一成などの著名人が関わった。カメラマンとしては、篠山紀信、荒木経惟、稲越功一、上田義彦、大森克己、操上和美、沢渡朔、十文字美信、田原桂一をはじめ、各時代のトップが競って参加し、日本の最先端アート・カルチャー・シーンのショーケースの役割を果たした。(流行通信 フレッシュアイペディアより)