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小沢一郎から見た横路孝弘
2003年(平成15年)9月26日、自由党は民主党と正式に合併し、小沢は一兵卒になると宣言して無役となった。11月9日の第43回衆議院選挙で民主党は、公示前議席よりも40議席増の177議席を獲得、11月27日に小沢は代表代行に就任した。民由合併後、小沢が最初に提携したのが社民党出身者で構成する民主党の派閥・新政局懇談会率いる横路孝弘だった。小沢と横路は安全保障面での政策を擦り合わせ、その後横路と旧社民勢力は小沢と行動を共にした(横路が国政復帰した1996年の衆議院選挙でも、北海道1区において小沢の甥・小野健太郎が新進党新人として出馬し横路と戦う予定だったが、非自民・野党同士で共闘し、町村信孝の北海道5区へ選挙区変更し、5区では旧民主党は不戦敗となった)。また、小沢は野党結集のために社民党へも民主党への合流を呼びかけたが、失敗に終わった。経済政策では、それまでの新自由主義から「地方経済」と「雇用」の重視の方針へ転換した。(小沢一郎 フレッシュアイペディアより)
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衆議院の優越から見た横路孝弘
参議院の意思でみなし否決や自然成立の日付が変わるのは、憲法の衆議院の優越規定を根幹から崩すとして反対意見も出ている。横路孝弘衆議院議長は2011年3月3日、予算案受領は機械的に行われるもので何らかの意思によって変動させることは法的安定性を害するとする、談話を発表した。予算案の受領日をめぐり、衆参両院の議長で見解が分かれる異例の事態となっている。もっとも、2011年度予算は3月29日に参議院本会議で否決され衆議院に返付されたため、衆議院の優越規定で衆議院の議決が国会議決となり、結果的として問題とならなかったが、今後の運用に波紋を残す結果となった。(衆議院の優越 フレッシュアイペディアより)
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田中角栄を追放する勝手連から見た横路孝弘
「勝手連」の名称は、同年春の北海道知事選挙に当選した横路孝弘の支援組織として一世を風靡した勝手連(「横路孝弘と勝手に連帯する若者連合」)に便乗したものである。当然ではあるが、「本家」の勝手連とのつながりはなく、「自発的に参集してある人物を支援する」という勝手連本来の選挙スタイルとも異なるものであった。(田中角栄を追放する勝手連 フレッシュアイペディアより)
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