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関西歌舞伎から見た丸本物
上方歌舞伎は江戸歌舞伎とともに歌舞伎の両輪をなし、江戸歌舞伎が荒事と言う勇壮な芸を作り出したのに対し、和事とよばれる柔らか味のある芸を形成している。廻り舞台やセリ上げなどの舞台機構も上方で生まれるなど18世紀ころは上方歌舞伎の方が進んでいた。丸本物とよばれる人形浄瑠璃の歌舞伎化したものや、石川五右衛門など天下を狙う悪人が大活躍するお家騒動物などの脚本が多い。筋は複雑で喜劇的要素が見られる。全体的に趣向に富むが独創性に乏しく、19世紀後半の並木五瓶以後は、江戸歌舞伎の四代目鶴屋南北や二代目河竹新七(黙阿弥)のような優れた作者は出なかった。このため今日上演される歌舞伎には、丸本物を除いて、上方系の作品が少ない。わずかに金澤龍玉作『渡雁恋玉章』(雁のたより)、近松徳三作『伊勢音頭恋寝刃』(伊勢音頭)、奈川亀輔作『敵討天下茶屋聚』(天下茶屋)あたりが残るくらいである。(関西歌舞伎 フレッシュアイペディアより)
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江の島から見た歌舞伎
四囲を海蝕崖に囲まれた険阻な地形、海蝕洞「岩屋」の存在は、古来宗教的な修行の場として江の島を特色づけてきた。奈良時代には役小角が、平安時代には空海、円仁が、鎌倉時代には良信(慈悲上人)、一遍が、江戸時代には木喰が参篭して修行に励んだと伝えられている。寿永元年(1182年)に源頼朝の祈願により文覚が弁才天を勧請し、頼朝が鳥居を奉納したことをきっかけに、代々の将軍や御家人が参拝したといわれる。鎌倉時代以後も、その時々の為政者から聖域として保護され、参詣されてきた。弁才天は水の神という性格を有し、歌舞音曲の守護神とされたため、歌舞伎役者や音楽家なども数多く参拝した。ことに音曲に関連する職業に多い視覚障害者の参拝も見られ、中でも関東総検校となる杉山和一の存在は特筆すべきである。参拝者のための宿坊も門前に軒を連ね、関東一円に出開帳を行うなどの活動も見られた。宿坊の中でも岩本院(江嶋寺=こうとうじとも呼ばれた)は有名で、現在の旅館「岩本楼」の前身にあたる。(江の島 フレッシュアイペディアより)