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    歌舞伎から見た博多座

    戦後の全盛期を迎えた1960年代 - 1970年代には次々と新しい動きが起こる。特に明治以降、軽視されがちだった歌舞伎本来の様式が重要だという認識が広がった。昭和40年(1965年)に芸能としての歌舞伎が重要無形文化財に指定され(保持者として伝統歌舞伎保存会の構成員を総合認定)、国立劇場が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功する。その後大阪には映画館を改装した大阪松竹座、福岡には博多座が開場し歌舞伎の興行はさらに充実さを増す。さらに、三代目市川猿之助は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時は蔑まれたケレンの要素が復活された。猿之助はさらに演劇形式としての歌舞伎を模索し、スーパー歌舞伎というより大胆な演出を強調した歌舞伎を創り出した。また近年では、十八代目中村勘三郎によるコクーン歌舞伎、平成中村座の公演、四代目坂田藤十郎などによる関西歌舞伎の復興などが目を引くようになった。また歌舞伎の演出にも蜷川幸雄や野田秀樹といった現代劇の演出家が迎えられるなど、新しいかたちの歌舞伎を模索する動きが盛んになっている現代の歌舞伎公演は、劇場設備などをとっても、江戸時代のそれと全く同じではない。その中で長い伝統を持つ歌舞伎の演劇様式を核に据えながら、現代的な演劇として上演していく試みが続いている。このような公演活動を通じて、歌舞伎は現代に生きる伝統芸能としての評価を得るに至っている。歌舞伎 フレッシュアイペディアより)

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    歌舞伎から見た義経記

    また歌舞伎には世界と呼ばれる類型がある。これは物語が展開する上での時代・場所・背景・人物などの設定を、観客の誰もが知っているような伝説や物語あるいは歴史上の事件などの大枠に求めたもので、「曾我物」「景清物」「隅田川物」「義経物(判官物)」「太平記物」「忠臣蔵物」などといった世界には、それぞれ特有の約束ごとが設定されている。観客はそうした世界の中で狂言作者がどのように物語を展開させるかを楽しむようになった。歌舞伎 フレッシュアイペディアより)

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    歌舞伎から見た連用形

    歌舞伎という名称の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」だといわれている。戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて京や江戸で流行した、派手な衣装や一風変った異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。歌舞伎 フレッシュアイペディアより)

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    歌舞伎から見た河東節

    上記の他、大薩摩節、河東節、新内節などが使われる演目がある。江戸浄瑠璃の一つである富本節(常磐津節と清元節の系譜の中間に位置する)は江戸時代に盛んに用いられたが、近代以降は衰退し、現在では歌舞伎の伴奏として演奏されることはない。歌舞伎 フレッシュアイペディアより)

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    歌舞伎から見た出囃子 (歌舞伎)

    長唄は舞台の正面または上手に雛段を設け、そこに出囃子とともに並んで演奏する。義太夫節の床以外での演奏は出語りという。常磐津や清元は山台という台に上がって演奏するが、山台はふつう常磐津だと舞台下手に、清元は舞台上手に置かれる(ただし清元の山台も本来は舞台下手に置くものだったという)。各流派の演奏はひとつの演目の中で単独で行うとは限らず、異なる音曲が順番に演奏を担当するものや、合奏するものがある。たとえば『京鹿子娘道成寺』では初めに義太夫が語り、次に長唄が演奏する。また舞踊劇『紅葉狩』では常磐津節、長唄、義太夫節が合奏しこれを三方掛合(さんぼうかけあい)という。長唄や浄瑠璃各流派は、歌舞伎公演のほか日本舞踊の伴奏や単独での演奏会も行われている。歌舞伎 フレッシュアイペディアより)

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    歌舞伎から見た伎楽

    この「かぶき」に「歌い舞う芸妓」の意から「歌舞妓」と当て字したのはその後のことだった。寛永6年(1629年)に女歌舞伎が禁止されると、芸妓に連なる「妓」の字に代わって伎楽に連なる「伎」の字を用いた「歌舞伎」の表記が見られるようになるが、江戸時代を通じてこの「歌舞妓」と「歌舞伎」は混用されていた。これが現在のように「歌舞伎」に落ち着いたのは明治になってからのことである。歌舞伎 フレッシュアイペディアより)

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    歌舞伎から見た能舞台

    歌舞伎の元祖は、慶長8年(1603年)に北野天満宮で興行を行い、京都で評判となった出雲阿国といわれている。阿国は出雲大社の巫女だったとも河原者でもあったというが、定かではない。阿国はその時代の流行歌に合わせて、踊りを披露し、また、男装して当時のかぶき者の振る舞いを取り入れて、当時最先端の演芸を生み出した。この頃の歌舞伎は能舞台で演じられており、現在の歌舞伎座をはじめとする劇場で見られる花道はまだ設置されていなかった。歌舞伎 フレッシュアイペディアより)

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    歌舞伎から見た小袖曾我薊色縫

    文化文政時代になると、四代目鶴屋南北が『東海道四谷怪談』(四谷怪談)や『於染久松色読販』(お染の七役)など、江戸で多くの作品を創作し、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来する。天保年間になって大南北や人気役者が次々に死去し、また天保の改革の一貫として堺町・葺屋町・木挽町に散在していた江戸三座と操り人形の薩摩座・結城座が一括して外堀の外に移転させられたり、五代目市川海老蔵が贅沢禁止令違反などの理由で江戸所払いになったりしたため、一時退潮を見せた。しかし江戸三座が猿若町という芝居町に集約されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まされた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花した。またその後幕末から明治の初めにかけては、二代目河竹新七(黙阿弥)が『小袖曾我薊色縫』(十六夜清心)、『三人吉三廓初買』(三人吉三)、『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)、『天衣紛上野初花』(河内山)などの名作を次々に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながった。。歌舞伎 フレッシュアイペディアより)

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    歌舞伎から見た封建的

    その一方では、従前からの梨園の封建的なあり方に疑問を呈する形で二代目市川猿之助の春秋座結成に始まり、ついに歌舞伎界の封建制的な部分に反発して昭和6年(1931年)には四代目河原崎長十郎、三代目中村翫右衛門、六代目河原崎國太郎らによる前進座が設立された。歌舞伎 フレッシュアイペディアより)

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    歌舞伎から見た盗賊

    明治になっても相変わらず市民の歌舞伎への人気は高かったが、日本国外の演劇事情を知った知識人などからは、その内容が文明国にふさわしくないのではないかという声も上がるようになった。歌舞伎では物語の背景や人物設定が決して簡単明瞭なものではなく、また内容も仇討ち・お家騒動・心中立などといった「前近代的」なものが多く、しかも盗賊・侠客・悪家老などを讃美するものあり、筋書きも荒唐無稽、そしてそれを宙乗りや早替わりなどといった外連(けれん)の演出で補うなどというのは、(彼らが信じる西洋式の)演劇の本来あるべきかたちをないがしろにするものではないか、といった批判が噴出したのである。歌舞伎 フレッシュアイペディアより)

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