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武蔵丸光洋から見た武蔵川部屋
2013年2月4日、先代武蔵川親方の停年退職により年寄名跡「武蔵川」を取得し、年寄・武蔵川を襲名した。同年4月1日付で内弟子の力士2人と床山1人を連れて武蔵川部屋を独立(事実上の再興)し、師匠として後進の指導に当たっている。なお、部屋の弟子の武蔵国は実の甥である。入門前は相撲未経験者の弟子を多く抱え、厳しい指導を行うも感情的に怒鳴ることはない指導で知られる。一方土俵を離れれば笑顔でおおらか、優しくて懐が深く、隙があればギャグを連発する裏表のない気さくな人柄を発揮。元横綱として持つ後援者や本人の人柄などもあって、ちゃんこの食材がすべて差し入れで賄える日もあるなど部屋の食糧事情は充実している。入門直後にはロクにコミュニケーションが取れない弟子もいるが、武蔵川主導でバーベキューやデリバリーピザを囲んでの食のレクリエーションを行うことでそうした弟子も自然とコミュニケーションを取れるようになる。(武蔵丸光洋 フレッシュアイペディアより)
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武蔵丸光洋から見た土俵
2003年(平成15年)1月場所から5月場所まで、左手首手術後のリハビリ専念の為3場所連続全休。その間同年1月場所9日目に平成の大横綱・貴乃花が引退、同場所後に朝青龍が第68代横綱に昇進。同年7月場所へ4場所振りに出場したが、又しても左手首痛の影響からか2勝3敗と不振、6日目から途中休場(朝青龍も9日目で5勝4敗と不調で10日目より途中休場、横綱不在となった)。翌9月場所も怪我の治療により全休。そして次の11月場所で進退を掛けるも6日目で3勝3敗と波に乗れず、結果的に現役最後の相撲となった2003年11月場所・7日目の土佐ノ海戦では、引っ掛けにあっけなく自ら土俵を割ってしまい、思わず天を仰いだ。その日の夜、武蔵川部屋で武蔵丸自ら現役引退を伝えると、部屋の弟弟子である武双山、雅山、武雄山らは揃って号泣し、また当時平幕に落ちていた好敵手の貴ノ浪も、翌8日目の支度部屋で大粒の涙を流したという。なお、この引退によりこれ以降前述の稀勢の里が第72代横綱に昇進するまで、番付から日本国籍を持つ横綱が姿を消すことになった。(武蔵丸光洋 フレッシュアイペディアより)
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武蔵丸光洋から見た前頭
1991年(平成3年)11月場所に終生のライバルとなる貴ノ浪らと同時に新入幕、東前頭12枚目の地位で11勝4敗を挙げて敢闘賞を受賞した。大きな体を生かした突き押しと、右四つからの寄りを得意とした。新入幕前の相撲雑誌には、「ハンマーで固めたようながっしりとした体の力士」で、「曙と一緒にハワイアンコンビとして若貴兄弟(若乃花・貴乃花)の終生のライバルとなるだろう。」と記述されており、新入幕前から大変な期待があったことが伺える。そしてこの通り、後年に曙(第64代横綱)・貴乃花(第65代横綱)・若乃花(第66代横綱)らと4横綱時代を築くこととなった。(武蔵丸光洋 フレッシュアイペディアより)
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武蔵丸光洋から見た下手投げ
2002年(平成14年)1月場所は、左手首の故障再発で途中休場するものの、同年3月場所・5月場所と2連覇を達成。7月場所は首痛の影響で終盤崩れて10勝5敗に終わるも、翌9月場所の千秋楽横綱相星決戦では、長期休場明けの貴乃花を倒して、13勝2敗で12回目の幕内優勝を果たした。その優勝のインタビューで武蔵丸は「貴乃花に敗れたままだったので、これまでは優勝しても心が痛かった。(貴乃花が)帰ってくるまでずっと待っていた。今までの優勝の中で一番嬉しい。」と笑顔でコメントする。貴乃花は引退後の対談で「もう一度マルちゃんと結びの一番を取ったら、そこで引退しよう」と決めていたことを明かしている。しかし皮肉にもこの一番が、貴乃花と武蔵丸にとって現役最後の対戦となり、又二人共に15日間皆勤した最後の場所となってしまった。同年11月場所中、武蔵丸は持病の左手首の故障が悪化、靱帯剥離骨折により6日目から途中休場した(前日の取組では貴ノ浪と対戦し下手投げで敗れていた)。場所後に手術を決行したものの左手首は結局全快する事はなく、現役最終盤の頃にはほぼ全ての腱が切れており、左手の握力が20kgを切るほど重症化していた。(武蔵丸光洋 フレッシュアイペディアより)
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武蔵丸光洋から見た横綱土俵入り
武蔵丸の横綱昇進により、平成時代に入ってからは2例目の4横綱と成った(曙・貴乃花・若乃花・武蔵丸)。その昇進伝達式では「横綱の名を汚さぬよう心・技・体に精進します」と予定していたところ言い間違えて「横綱の名を汚さぬよう・・・。ショウジン・タイにいたします」という不思議な口上を述べてしまうというハプニングが起こった。横綱昇進披露では、初土俵を踏む前にハワイのタロイモで作った酒を出席者に振舞った。横綱土俵入りは、師匠の武蔵川親方同様に雲龍型を選択、土俵入りの指導も武蔵川親方が行った。しかし武蔵丸の横綱土俵入りは、せり上がりがかなり不安定で四股の足があまり高く上がらない事もあり、200kgを超える力士としては今一つ重量感に欠け、決して上手いとは言い切れなかった。(武蔵丸光洋 フレッシュアイペディアより)