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黒姫山秀男から見た三重ノ海剛司
熱心な指導を行う周囲のおかげで以降は順調に出世し、1969年3月場所に新十両へ昇進し、同年7月場所には新入幕を果たした。その7月場所では4勝11敗と大敗して十両に陥落するが、1場所で幕内へ復帰してからは幕内に定着する。1970年11月場所には新三役となる西小結へ昇進し、その11月場所では6勝9敗と負け越したものの5日目には横綱・大鵬を突き落としで破った。立合いからのぶちかましは強烈で、出足の鋭さも生かして北の湖を電車道で押し出すほどであった。そのぶちかましの威力から蒸気機関車の代名詞である「デゴイチ」との異名をとった。また、額の広いことで「デボネア」とのあだ名もあった。横綱・大関陣との対戦でも必殺のぶちかましで活躍し、横綱・北の湖に8勝26敗、横綱・輪島に7勝24敗、横綱・若乃花には5勝18敗、横綱・三重ノ海には13勝21敗という成績を残し、金星を6個獲得して殊勲賞を4回受賞した。また、大関時代の大受には3戦3勝し、大関・貴ノ花には通算で16勝23敗と上位陣に対してほぼ互角に戦った。(黒姫山秀男 フレッシュアイペディアより)
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番付から見た三重ノ海剛司
また理事長が停年前に理事長職を辞し、停年退職まで「相談役」として番付に掲載(2000年(平成12年)以降では境川尚、時津風勝男、武蔵川晃偉、放駒輝門)されることもある。1959年(昭和34年)10月に発行された『大相撲』に「定年(停年、以下同)制実施の要綱」の記事に「定年になって種々の関係から残ってもらいたい、というときに相談役とするのであるが、従来による功労による相談役ではなく(中略)、相談役は番付にも掲載されない」とあり、時津風理事長の時代、武藏川(当時、出羽海)らが中心になって停年制実施を改革の一環として行ってきたが、1974年(昭和49年)3月場所の番付に、「相談役 武藏川喜偉」とある。当時新理事長に就任した春日野の要請で、皮肉にも自らが“停年延長”を前例として残すことになり、停年を迎えたにも関わらず相談役という肩書で番付に年寄名のまま残すこととなった。(番付 フレッシュアイペディアより)
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鶴竜力三郎から見た三重ノ海剛司
1月場所は初の連覇を目指し初日から連勝。2日目には行司差し違えで松鳳山に勝利するなど3連勝するも4日目から5連敗中だった荒鷲に負けるなど3連敗、御嶽海と荒鷲と2個の金星を与えている。荒鷲は初土俵から85場所目での初金星獲得は、昭和以降で7番目の遅さで、外国出身力士では最も遅いという記録を作った。さらに9日目の勢にも不覚をとりこの場所3個目の金星を与えてしまう。10日目の玉鷲戦も良いところなく敗戦。横綱の10日目終了時点での5敗(不戦敗除く)は、1980年名古屋場所の三重ノ海以来約37年ぶりの不名誉記録となった。結局、11日目から怪我などで休場した。詳しい症状は頸椎斜角筋損傷、左肩鎖関節脱臼で約1カ月のリハビリ加療を擁する見込みと診断されており周囲が想像していた以上の怪我であることが判明した。2017年3月場所は6日目に過去11戦全勝であった松鳳山に金星を配給するなど調子が上がらず、11日目に勝ち越しを決めたもののそこから2連敗し、残りを連勝して10勝5敗と何とか2ケタ白星に漕ぎ着けた。4月2日に伊勢神宮奉納大相撲で行われた幕内トーナメントでは選士宣言を行い、大会は準優勝と好調をアピール。(鶴竜力三郎 フレッシュアイペディアより)