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  • 三重ノ海剛司

    三重ノ海剛司から見た安藝ノ海節男

    入門したばかりの頃は当たって左前ミツを取るばかりであったが、あるとき激しい稽古で頭がブヨブヨに腫れて病院送りになってしまったので、右上手を浅く引いて前に出る、出し投げを打つという相撲を覚えた。本人は春日野部屋の栃ノ海が参考になったと語っている。前廻しを取って低い姿勢から寄っていく取り口が主体で、巧みな前捌きで相手に力を出させずに勝つ相撲を身上とした。右前ミツを引いての速攻、右上手出し投げは絶品の速攻相撲であった。好調時には前廻しを引いての速攻が冴え、「相手はまだこれからと思っているうち、いつの間にか土俵を割ってしまう」ことから「妖気の漂う土俵」とも称された。出羽海部屋の先輩横綱だった安藝ノ海と取り口が似ていることから、「安藝ノ海二世」と称されたこともある。「安藝ノ海二世」と評されたことに関しては「前ミツを取って頭を付ける自分の取り口もそうですが、体つきが似ていたということもあったんでしょうね」と話している。前捌きの一環として張り差しを多用し、1977年11月場所の輪島戦では、自身の張り手による相手の脳震盪によって寄り切りで勝利しているが、自分の体勢を作れないときは強引な張り手の連発で自滅することもあった。1977年11月場所の輪島戦で張り手を多用したのは、前夜に後援者の面々と食事していた時に三重ノ海の直近の対輪島戦の成績が悪い話題になり、場の雰囲気がまずくなりそうであったので「じゃあ、明日は張っていきます」と冗談で威勢良く言ってしまったためである。後援者達は「よし、だったらみんなで見に行こう」となったため、三重ノ海は「やべ、これはウソつけないな」と思い、張り手を多用することにした。しかしこの1番で結果的に張り手が成功し、以来大関として安定した成績を残せるようになり、引いては綱取りにつながった。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

  • 三重ノ海剛司

    三重ノ海剛司から見た廣川泰三

    入門前の相撲経験が皆無であったこともあって大相撲入門後は二番出世で序二段に13場所も留まるなど出世は遅く、非力で体格にも恵まれていなかったために周囲から期待されおらず、8代出羽海は「1週間もしないうちに、嫌になって帰るだろうと思っていた」といい、1967年9月場所に三段目優勝を果たしてようやく部屋付の高崎から「三段目の優勝で初めておまえの存在を知った」と言われるほどであった。本人は初土俵同期の旭國が1年で幕下に上がるのを見て焦りを覚えたという。尤も、旭国は約1年見習として下積みしてから初土俵を踏んだため、旭國の出世が速かったのはある意味では当然である。序二段の最後に部屋の若者頭から四股名を自分で考えろと言われ(当時の出羽海部屋は所属力士の数が多かったため、親方は四股名を考えてくれなかった)、四股名「三重ノ海」を名乗るようになった。三重県には「海」があって、部屋名の「出羽海」にも「海」の字があり、それらから取った「海」の字に出身の「三重」の字を足した、というのが四股名の由来である。出身の三重を使った四股名では、当時部屋には三重ノ山や三重光がいたのでそれ以外となると、海が思い浮かぶということで「海」の字を採用したという。三段目優勝以降は幕下に定着し、先輩の一人が「三段目で優勝した力士のだいたいが関取になる場合が多いから」という言葉で気を良くして、更に稽古に励んだ。東幕下5枚目の地位で土俵に上がった1969年3月場所には5勝1敗ともう1勝すれば十両昇進は確実とされた7番相撲で当時十両であった廣川を寄り切り、場所後新十両へ昇進。新弟子時代からのライバルであった旭國と同時に十両昇進を果たした格好であった。実家に帰って報告したら母は泣いて喜んでくれた。新十両の頃、当時大関だった琴櫻が出稽古に来てたまたま自身が指名されたが、2番続けて勝ったため琴櫻はムキになってそこから三重ノ海は土俵に叩きつけられ転がされ、なすすべなしであった。同年9月場所には新入幕を果たした。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た北の富士勝昭

    2007年6月16日には、2002年の北の富士以来5年ぶり史上8人目となる還暦土俵入りをホテル・グランパシフィック・メリディアンで行った。太刀持ちは出島、露払いは雅山が務めた。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た前の山太郎

    旭國とは20勝16敗(不戦敗1つ含む)、魁傑とは19勝19敗、貴ノ花とは21勝24敗、大受とは12勝9敗、前の山とは8勝7敗(不戦敗1つ含む)、清國とは6勝9敗と多くの場合対戦成績が安定していた。増位山に対しては19勝10敗と寧ろ得意にしていた。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た清國勝雄

    旭國とは20勝16敗(不戦敗1つ含む)、魁傑とは19勝19敗、貴ノ花とは21勝24敗、大受とは12勝9敗、前の山とは8勝7敗(不戦敗1つ含む)、清國とは6勝9敗と多くの場合対戦成績が安定していた。増位山に対しては19勝10敗と寧ろ得意にしていた。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た玉の海正洋

    1970年7月場所には新三役となる西小結へ昇進し、大鵬・玉の海を破って初の殊勲賞を受賞した。その後も幕内上位に定着し、1971年11月場所には西小結の位置で11勝4敗の好成績を挙げて初の技能賞を受賞し、長谷川・貴ノ花・輪島・魁傑と共に大関候補として大いに期待され、これらの力士は三角大福にあやかって「貴輪三魁(きりんさんかい)」と呼ばれた。しかし、1972年から肝臓病が悪化して、1973年9月場所から1975年3月場所までは平幕に在位した。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た長谷川勝敏

    1970年7月場所には新三役となる西小結へ昇進し、大鵬・玉の海を破って初の殊勲賞を受賞した。その後も幕内上位に定着し、1971年11月場所には西小結の位置で11勝4敗の好成績を挙げて初の技能賞を受賞し、長谷川・貴ノ花・輪島・魁傑と共に大関候補として大いに期待され、これらの力士は三角大福にあやかって「貴輪三魁(きりんさんかい)」と呼ばれた。しかし、1972年から肝臓病が悪化して、1973年9月場所から1975年3月場所までは平幕に在位した。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た羽嶋山昌乃武

    1948年に三重県松阪市で生まれる。幼少期は山で木を削って刀を作ったり、ターザンごっこしたり、寺で三角ベースをやったりしていた。野球も少ししていたが、特別好きなチームはなく、好きな選手はいなかった。運動神経は悪かったため、野球ではチームの足を引っ張っていた。父が建設関係の仕事をしていたころは普通の生活を送っていたが、父が病気で倒れてからは途端に貧しくなった。以来、ベルトを買う金もなく、母の腰巻の紐で代用していたほどの貧窮家庭に育った。小学4年生の頃から新聞配達を行い、6年生の頃からは中学生以上でないと行えない牛乳配達を年を偽って行った。中学時代は松阪駅近くの精肉店の配達のアルバイトも始め、仕事の終わりの銭湯と外食が楽しみであった。中学1年の時、石山と10歳以上年の離れた兄が出羽海部屋をひいきにしていた魚屋の大将に「うちの弟がそこそこ体が大きいから相撲取りにどうかな」と冗談半分で相談した。大将は興味を持って「それならちょっと(体を)見せてみろ」となり、石山は銭湯で体を見られた。まもなく名古屋場所が始まる時期で、その準備で出羽海部屋の部屋付き親方であった松ヶ根(元関脇・羽嶋山)が名古屋に来るから会わせてやる、と言われ、石山は相撲に全く興味はなかったが、言われるまま、松ヶ根が泊まる旅館に連れて行かれた。75kg以上と体重はあったが、身長が167cmぐらいで当時の新弟子検査の基準(173cm、75kg)に達していなかった。松ヶ根は「身長が伸びたら、また連絡でもしてこい」といい、結局、それで話はすぐに終わってしまった。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た栃赤城雅男

    1978年には2桁勝利を4度記録し、1979年5月場所では北の湖の連勝を32で止めたのを含めて13勝2敗という優勝次点の成績を挙げる。自身初の綱獲りとなった翌7月場所では、初日に栃赤城に敗れるが、ここで「これでもう、綱はないな。あとは2桁挙げられるように頑張ろう」と気持ちを切り替え、そこからは白星を重ねて14連勝。結果14勝1敗の成績を挙げて優勝決定戦まで進出し、輪島との優勝決定戦には敗れたものの、優勝同点の好成績を挙げたことで横綱に推挙され、当時31歳5か月の高齢という遅咲きながら翌9月場所において漸く横綱へ昇進した。2017年現在、関脇の地位へ陥落しながらも大関復帰を果たしその後横綱へ昇進した唯一の力士である。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た千代の山雅信

    松阪市立鎌田中学校在学中に父親を亡くしたため、中学卒業後に集団就職で東京のアルミ工場へ一度就職したものの、苛酷な労働環境に耐えかねて退職し、帰郷した。工場勤務時代については「田舎にいてもしょうがないと、上京して、江戸川区のアルミ工場で働いたんですが、まあきつい仕事でね(苦笑)。液体のアルミを型に流し込む仕事なんですが、重いし、熱くて部屋の空気は悪いし」と後に語っている。工場勤務時代のある日に上野公園に行ったとき、力士を見かけて相撲部屋に勧誘された話を思い出し、一緒にいた先輩も「お前、太ってるから向いているよ」と言い、そこで入門に対する意欲を持つようになった。その後、以前から憧れていた大相撲力士を目指して出羽海部屋に入門し、1963年7月場所において初土俵を踏んだ。新弟子検査を控えていた時、身長が足りないので兄弟子に頼んでたんこぶを作ってもらったり検査前夜に寝る時は少しでも背筋が伸びるように枕を腰の下に置いて寝たりして数mmでも身長が高く計測されるように工夫した。幸いにも当日に身長を計測してくれたのが当時の出羽海部付きの九重(元横綱・千代の山)であったため目溢しにより合格した。名古屋場所前はいわゆる「新弟子枯れ」の時期であり、検査が緩くなる傾向にあった。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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