104件中 51 - 60件表示
  • 三重ノ海剛司

    三重ノ海剛司から見た廻し

    横綱昇進の際には、入門時の師匠である13代武蔵川(元幕内・出羽ノ花)から「一簣功(いっきのこう)」という言葉を贈られた。「九仞の功一簣に虧(か)く」という故語からの引用で、「苦労の末に晩年に横綱になったが、これで安心せずもう一花咲かせてみせよ」という思いが込められた言葉である。実際三重ノ海の横綱昇進時、師匠の出羽海親方も「太く短い横綱で終わっても構わないから、引退する前に一度位は優勝して欲しい」と奮起を促したという。三揃えの化粧廻しにはこの「一簣功」の三文字をあしらったものがあり(「一」は露払い、「簣」は横綱、「功」は太刀持ちが着用。文字の筆を執ったのは武蔵川本人)、自身の還暦土俵入りでも使用された。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

  • 三重ノ海剛司

    三重ノ海剛司から見た土俵

    入門当初、「どんなことがあっても5年は頑張ろう。5年経っても20歳だからそこから第二の人生を歩める」と考えていたが、周囲は石山が本気で力士になるという決断をしたとは思っておらず、母親も「すぐに帰って来るだろう」と考えていた。入門時点での出羽海部屋には所属力士が80人ほどおり、人数過多のため土俵での稽古もままならないほどであったが、そんな中で石山は朝稽古が始まる午前6時より前の5時台(早い時には4時半)に起きて四股を踏んでいた。取的時代にはちゃんこを食べるにしても、スープしかない鍋の周りを自身と同じ取的同士10人程度で囲み、全員半身になってスープを取り合いつつ、ご飯にかけてかき込むなど苦労を経験した。入門して1年半が経過した頃には虫垂を切除し、そこから徐々に体が大きくなって、稽古を積みながら少しずつ番付が上がった。序二段時代には頭をぶつけて内出血したことで入院し、5千円(現在の2万5千円に相当する)を母から借り、角界に入って金を求めたのは最初で最後だったが、これで絶対親に苦労かけてはいけないと石山は思った。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

  • 三重ノ海剛司

    三重ノ海剛司から見た武蔵川

    引退後は短期間だけ年寄・山科を襲名した後すぐに年寄・14代武蔵川を襲名し、1981年8月には出羽海部屋から分家独立して武蔵川部屋を創設した。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

  • 三重ノ海剛司

    三重ノ海剛司から見た太刀持ち

    2007年6月16日には、2002年の北の富士以来5年ぶり史上8人目となる還暦土俵入りをホテル・グランパシフィック・メリディアンで行った。太刀持ちは出島、露払いは雅山が務めた。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

  • 三重ノ海剛司

    三重ノ海剛司から見た四股名

    入門前の相撲経験が皆無であったこともあって大相撲入門後は二番出世で序二段に13場所も留まるなど出世は遅く、非力で体格にも恵まれていなかったために周囲から期待されおらず、8代出羽海は「1週間もしないうちに、嫌になって帰るだろうと思っていた」といい、1967年9月場所に三段目優勝を果たしてようやく部屋付の高崎から「三段目の優勝で初めておまえの存在を知った」と言われるほどであった。本人は初土俵同期の旭國が1年で幕下に上がるのを見て焦りを覚えたという。尤も、旭国は約1年見習として下積みしてから初土俵を踏んだため、旭國の出世が速かったのはある意味では当然である。序二段の最後に部屋の若者頭から四股名を自分で考えろと言われ(当時の出羽海部屋は所属力士の数が多かったため、親方は四股名を考えてくれなかった)、四股名「三重ノ海」を名乗るようになった。三重県には「海」があって、部屋名の「出羽海」にも「海」の字があり、それらから取った「海」の字に出身の「三重」の字を足した、というのが四股名の由来である。出身の三重を使った四股名では、当時部屋には三重ノ山や三重光がいたのでそれ以外となると、海が思い浮かぶということで「海」の字を採用したという。三段目優勝以降は幕下に定着し、先輩の一人が「三段目で優勝した力士のだいたいが関取になる場合が多いから」という言葉で気を良くして、更に稽古に励んだ。東幕下5枚目の地位で土俵に上がった1969年3月場所には5勝1敗ともう1勝すれば十両昇進は確実とされた7番相撲で当時十両であった廣川を寄り切り、場所後新十両へ昇進。新弟子時代からのライバルであった旭國と同時に十両昇進を果たした格好であった。実家に帰って報告したら母は泣いて喜んでくれた。新十両の頃、当時大関だった琴櫻が出稽古に来てたまたま自身が指名されたが、2番続けて勝ったため琴櫻はムキになってそこから三重ノ海は土俵に叩きつけられ転がされ、なすすべなしであった。同年9月場所には新入幕を果たした。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

  • 三重ノ海剛司

    三重ノ海剛司から見たターザン

    1948年に三重県松阪市で生まれる。幼少期は山で木を削って刀を作ったり、ターザンごっこしたり、寺で三角ベースをやったりしていた。野球も少ししていたが、特別好きなチームはなく、好きな選手はいなかった。運動神経は悪かったため、野球ではチームの足を引っ張っていた。父が建設関係の仕事をしていたころは普通の生活を送っていたが、父が病気で倒れてからは途端に貧しくなった。以来、ベルトを買う金もなく、母の腰巻の紐で代用していたほどの貧窮家庭に育った。小学4年生の頃から新聞配達を行い、6年生の頃からは中学生以上でないと行えない牛乳配達を年を偽って行った。中学時代は松阪駅近くの精肉店の配達のアルバイトも始め、仕事の終わりの銭湯と外食が楽しみであった。中学1年の時、石山と10歳以上年の離れた兄が出羽海部屋をひいきにしていた魚屋の大将に「うちの弟がそこそこ体が大きいから相撲取りにどうかな」と冗談半分で相談した。大将は興味を持って「それならちょっと(体を)見せてみろ」となり、石山は銭湯で体を見られた。まもなく名古屋場所が始まる時期で、その準備で出羽海部屋の部屋付き親方であった松ヶ根(元関脇・羽嶋山)が名古屋に来るから会わせてやる、と言われ、石山は相撲に全く興味はなかったが、言われるまま、松ヶ根が泊まる旅館に連れて行かれた。75kg以上と体重はあったが、身長が167cmぐらいで当時の新弟子検査の基準(173cm、75kg)に達していなかった。松ヶ根は「身長が伸びたら、また連絡でもしてこい」といい、結局、それで話はすぐに終わってしまった。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

  • 三重ノ海剛司

    三重ノ海剛司から見た

    松阪市立鎌田中学校在学中に父親を亡くしたため、中学卒業後に集団就職で東京のアルミ工場へ一度就職したものの、苛酷な労働環境に耐えかねて退職し、帰郷した。工場勤務時代については「田舎にいてもしょうがないと、上京して、江戸川区のアルミ工場で働いたんですが、まあきつい仕事でね(苦笑)。液体のアルミを型に流し込む仕事なんですが、重いし、熱くて部屋の空気は悪いし」と後に語っている。工場勤務時代のある日に上野公園に行ったとき、力士を見かけて相撲部屋に勧誘された話を思い出し、一緒にいた先輩も「お前、太ってるから向いているよ」と言い、そこで入門に対する意欲を持つようになった。その後、以前から憧れていた大相撲力士を目指して出羽海部屋に入門し、1963年7月場所において初土俵を踏んだ。新弟子検査を控えていた時、身長が足りないので兄弟子に頼んでたんこぶを作ってもらったり検査前夜に寝る時は少しでも背筋が伸びるようにを腰の下に置いて寝たりして数mmでも身長が高く計測されるように工夫した。幸いにも当日に身長を計測してくれたのが当時の出羽海部付きの九重(元横綱・千代の山)であったため目溢しにより合格した。名古屋場所前はいわゆる「新弟子枯れ」の時期であり、検査が緩くなる傾向にあった。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

  • 三重ノ海剛司

    三重ノ海剛司から見た集団就職

    松阪市立鎌田中学校在学中に父親を亡くしたため、中学卒業後に集団就職で東京のアルミ工場へ一度就職したものの、苛酷な労働環境に耐えかねて退職し、帰郷した。工場勤務時代については「田舎にいてもしょうがないと、上京して、江戸川区のアルミ工場で働いたんですが、まあきつい仕事でね(苦笑)。液体のアルミを型に流し込む仕事なんですが、重いし、熱くて部屋の空気は悪いし」と後に語っている。工場勤務時代のある日に上野公園に行ったとき、力士を見かけて相撲部屋に勧誘された話を思い出し、一緒にいた先輩も「お前、太ってるから向いているよ」と言い、そこで入門に対する意欲を持つようになった。その後、以前から憧れていた大相撲力士を目指して出羽海部屋に入門し、1963年7月場所において初土俵を踏んだ。新弟子検査を控えていた時、身長が足りないので兄弟子に頼んでたんこぶを作ってもらったり検査前夜に寝る時は少しでも背筋が伸びるように枕を腰の下に置いて寝たりして数mmでも身長が高く計測されるように工夫した。幸いにも当日に身長を計測してくれたのが当時の出羽海部付きの九重(元横綱・千代の山)であったため目溢しにより合格した。名古屋場所前はいわゆる「新弟子枯れ」の時期であり、検査が緩くなる傾向にあった。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

  • 三重ノ海剛司

    三重ノ海剛司から見た出羽海

    横綱土俵入りは雲龍型を選択し、指導は師匠である9代出羽海親方(元横綱・佐田の山)が行った。大関時代の不振もあって昇進時に周囲から「大丈夫か」という声が多く聞かれたといい、当時の番付には横綱に輪島、北の湖、2代目若乃花。大関に貴ノ花、旭国という面々がいたため、本人も「こんなすごいメンツで常に優勝を狙えるのか」と思っていた。新横綱の1979年9月場所は11勝4敗に留まったものの、同年11月場所で14勝1敗・1980年1月場所に15戦全勝と2場所連続優勝を達成した。11月場所14日目の2代目若乃花戦などはNHK大相撲中継の視聴率が39.8%を記録しており、これは九州場所のものとしては2017年9月場所終了時点で2位である(ビデオリサーチ調べ)。しかしその後は年齢による体力の衰えもあって古傷の左肘の悪化など怪我や病気で休場が多く、2場所連続休場後の1980年11月場所は初日から2連敗、同場所3日目に現役引退を表明した(当時の年齢は32歳9か月)。横綱として15日間皆勤した場所は僅か4場所のみで、在位場所数も8場所と短命横綱に終わった。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

  • 三重ノ海剛司

    三重ノ海剛司から見た横綱土俵入り

    横綱土俵入りは雲龍型を選択し、指導は師匠である9代出羽海親方(元横綱・佐田の山)が行った。大関時代の不振もあって昇進時に周囲から「大丈夫か」という声が多く聞かれたといい、当時の番付には横綱に輪島、北の湖、2代目若乃花。大関に貴ノ花、旭国という面々がいたため、本人も「こんなすごいメンツで常に優勝を狙えるのか」と思っていた。新横綱の1979年9月場所は11勝4敗に留まったものの、同年11月場所で14勝1敗・1980年1月場所に15戦全勝と2場所連続優勝を達成した。11月場所14日目の2代目若乃花戦などはNHK大相撲中継の視聴率が39.8%を記録しており、これは九州場所のものとしては2017年9月場所終了時点で2位である(ビデオリサーチ調べ)。しかしその後は年齢による体力の衰えもあって古傷の左肘の悪化など怪我や病気で休場が多く、2場所連続休場後の1980年11月場所は初日から2連敗、同場所3日目に現役引退を表明した(当時の年齢は32歳9か月)。横綱として15日間皆勤した場所は僅か4場所のみで、在位場所数も8場所と短命横綱に終わった。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

104件中 51 - 60件表示

「武蔵川晃偉」のニューストピックワード