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  • 三重ノ海剛司

    三重ノ海剛司から見たちゃんこ

    入門当初、「どんなことがあっても5年は頑張ろう。5年経っても20歳だからそこから第二の人生を歩める」と考えていたが、周囲は石山が本気で力士になるという決断をしたとは思っておらず、母親も「すぐに帰って来るだろう」と考えていた。入門時点での出羽海部屋には所属力士が80人ほどおり、人数過多のため土俵での稽古もままならないほどであったが、そんな中で石山は朝稽古が始まる午前6時より前の5時台(早い時には4時半)に起きて四股を踏んでいた。取的時代にはちゃんこを食べるにしても、スープしかない鍋の周りを自身と同じ取的同士10人程度で囲み、全員半身になってスープを取り合いつつ、ご飯にかけてかき込むなど苦労を経験した。入門して1年半が経過した頃には虫垂を切除し、そこから徐々に体が大きくなって、稽古を積みながら少しずつ番付が上がった。序二段時代には頭をぶつけて内出血したことで入院し、5千円(現在の2万5千円に相当する)を母から借り、角界に入って金を求めたのは最初で最後だったが、これで絶対親に苦労かけてはいけないと石山は思った。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た出羽海部屋

    1948年に三重県松阪市で生まれる。幼少期は山で木を削って刀を作ったり、ターザンごっこしたり、寺で三角ベースをやったりしていた。野球も少ししていたが、特別好きなチームはなく、好きな選手はいなかった。運動神経は悪かったため、野球ではチームの足を引っ張っていた。父が建設関係の仕事をしていたころは普通の生活を送っていたが、父が病気で倒れてからは途端に貧しくなった。以来、ベルトを買う金もなく、母の腰巻の紐で代用していたほどの貧窮家庭に育った。小学4年生の頃から新聞配達を行い、6年生の頃からは中学生以上でないと行えない牛乳配達を年を偽って行った。中学時代は松阪駅近くの精肉店の配達のアルバイトも始め、仕事の終わりの銭湯と外食が楽しみであった。中学1年の時、石山と10歳以上年の離れた兄が出羽海部屋をひいきにしていた魚屋の大将に「うちの弟がそこそこ体が大きいから相撲取りにどうかな」と冗談半分で相談した。大将は興味を持って「それならちょっと(体を)見せてみろ」となり、石山は銭湯で体を見られた。まもなく名古屋場所が始まる時期で、その準備で出羽海部屋の部屋付き親方であった松ヶ根(元関脇・羽嶋山)が名古屋に来るから会わせてやる、と言われ、石山は相撲に全く興味はなかったが、言われるまま、松ヶ根が泊まる旅館に連れて行かれた。75kg以上と体重はあったが、身長が167cmぐらいで当時の新弟子検査の基準(173cm、75kg)に達していなかった。松ヶ根は「身長が伸びたら、また連絡でもしてこい」といい、結局、それで話はすぐに終わってしまった。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た序二段

    入門当初、「どんなことがあっても5年は頑張ろう。5年経っても20歳だからそこから第二の人生を歩める」と考えていたが、周囲は石山が本気で力士になるという決断をしたとは思っておらず、母親も「すぐに帰って来るだろう」と考えていた。入門時点での出羽海部屋には所属力士が80人ほどおり、人数過多のため土俵での稽古もままならないほどであったが、そんな中で石山は朝稽古が始まる午前6時より前の5時台(早い時には4時半)に起きて四股を踏んでいた。取的時代にはちゃんこを食べるにしても、スープしかない鍋の周りを自身と同じ取的同士10人程度で囲み、全員半身になってスープを取り合いつつ、ご飯にかけてかき込むなど苦労を経験した。入門して1年半が経過した頃には虫垂を切除し、そこから徐々に体が大きくなって、稽古を積みながら少しずつ番付が上がった。序二段時代には頭をぶつけて内出血したことで入院し、5千円(現在の2万5千円に相当する)を母から借り、角界に入って金を求めたのは最初で最後だったが、これで絶対親に苦労かけてはいけないと石山は思った。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た虫垂

    入門当初、「どんなことがあっても5年は頑張ろう。5年経っても20歳だからそこから第二の人生を歩める」と考えていたが、周囲は石山が本気で力士になるという決断をしたとは思っておらず、母親も「すぐに帰って来るだろう」と考えていた。入門時点での出羽海部屋には所属力士が80人ほどおり、人数過多のため土俵での稽古もままならないほどであったが、そんな中で石山は朝稽古が始まる午前6時より前の5時台(早い時には4時半)に起きて四股を踏んでいた。取的時代にはちゃんこを食べるにしても、スープしかない鍋の周りを自身と同じ取的同士10人程度で囲み、全員半身になってスープを取り合いつつ、ご飯にかけてかき込むなど苦労を経験した。入門して1年半が経過した頃には虫垂を切除し、そこから徐々に体が大きくなって、稽古を積みながら少しずつ番付が上がった。序二段時代には頭をぶつけて内出血したことで入院し、5千円(現在の2万5千円に相当する)を母から借り、角界に入って金を求めたのは最初で最後だったが、これで絶対親に苦労かけてはいけないと石山は思った。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た張り手

    入門したばかりの頃は当たって左前ミツを取るばかりであったが、あるとき激しい稽古で頭がブヨブヨに腫れて病院送りになってしまったので、右上手を浅く引いて前に出る、出し投げを打つという相撲を覚えた。本人は春日野部屋の栃ノ海が参考になったと語っている。前廻しを取って低い姿勢から寄っていく取り口が主体で、巧みな前捌きで相手に力を出させずに勝つ相撲を身上とした。右前ミツを引いての速攻、右上手出し投げは絶品の速攻相撲であった。好調時には前廻しを引いての速攻が冴え、「相手はまだこれからと思っているうち、いつの間にか土俵を割ってしまう」ことから「妖気の漂う土俵」とも称された。出羽海部屋の先輩横綱だった安藝ノ海と取り口が似ていることから、「安藝ノ海二世」と称されたこともある。「安藝ノ海二世」と評されたことに関しては「前ミツを取って頭を付ける自分の取り口もそうですが、体つきが似ていたということもあったんでしょうね」と話している。前捌きの一環として張り差しを多用し、1977年11月場所の輪島戦では、自身の張り手による相手の脳震盪によって寄り切りで勝利しているが、自分の体勢を作れないときは強引な張り手の連発で自滅することもあった。1977年11月場所の輪島戦で張り手を多用したのは、前夜に後援者の面々と食事していた時に三重ノ海の直近の対輪島戦の成績が悪い話題になり、場の雰囲気がまずくなりそうであったので「じゃあ、明日は張っていきます」と冗談で威勢良く言ってしまったためである。後援者達は「よし、だったらみんなで見に行こう」となったため、三重ノ海は「やべ、これはウソつけないな」と思い、張り手を多用することにした。しかしこの1番で結果的に張り手が成功し、以来大関として安定した成績を残せるようになり、引いては綱取りにつながった。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た定年

    2013年2月3日に日本相撲協会を停年退職。停年会見では現役時代について「十両に上がった時が一番うれしかった」と述懐しており「横綱(武蔵丸)を育てることができ、少しでも協会に恩返しできたかなという気持ち」とも言い残している。折しも自身の停年が、昭和の大横綱・大鵬(第48代横綱)が亡くなった時期(2013年1月19日逝去、享年72)と近く、協会員として最後の出勤場所となった2013年1月場所中の解説では、大鵬に対して哀悼の意を述べると共に思い出の取り組みとして、1970年7月場所の3日目、大鵬と初顔合わせを果たして勝利を収めた一番を挙げていた。「(大鵬は角界に)入った時からの大横綱。相撲を取れることだけで、前の晩から眠れないぐらい興奮していました」と回顧し「とにかく相撲を取れるだけで、心が躍っていました、少しでも長く(大鵬の)体に触っていたい、簡単に勝負をつけさせない、そんな気持ちで相撲を取りました」と懐かしんでいた。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た大相撲野球賭博問題

    2010年に発覚した大相撲野球賭博問題では、弟子の雅山が野球賭博に関与したために特別調査委員会から謹慎処分を受け、本人もその監督責任として特別調査委員会から同年7月4日から25日までの謹慎を勧告されたため、村山弘義に謹慎期間中における理事長代行を委嘱した。同年7月19日には高血圧で入院していたことが判明し、その後も胃癌の手術を受けて理事長職への復帰の見通しが立たなかったため、当初の委嘱期間が終了して以降も村山がそのまま理事長代行を務めた。同年8月5日に理事長職へ復帰したものの、同年8月12日に行われた臨時理事会で正式に理事長辞任を表明し、後任には17代放駒親方(元大関・魁傑)が選出された。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た東京

    松阪市立鎌田中学校在学中に父親を亡くしたため、中学卒業後に集団就職で東京のアルミ工場へ一度就職したものの、苛酷な労働環境に耐えかねて退職し、帰郷した。工場勤務時代については「田舎にいてもしょうがないと、上京して、江戸川区のアルミ工場で働いたんですが、まあきつい仕事でね(苦笑)。液体のアルミを型に流し込む仕事なんですが、重いし、熱くて部屋の空気は悪いし」と後に語っている。工場勤務時代のある日に上野公園に行ったとき、力士を見かけて相撲部屋に勧誘された話を思い出し、一緒にいた先輩も「お前、太ってるから向いているよ」と言い、そこで入門に対する意欲を持つようになった。その後、以前から憧れていた大相撲力士を目指して出羽海部屋に入門し、1963年7月場所において初土俵を踏んだ。新弟子検査を控えていた時、身長が足りないので兄弟子に頼んでたんこぶを作ってもらったり検査前夜に寝る時は少しでも背筋が伸びるように枕を腰の下に置いて寝たりして数mmでも身長が高く計測されるように工夫した。幸いにも当日に身長を計測してくれたのが当時の出羽海部付きの九重(元横綱・千代の山)であったため目溢しにより合格した。名古屋場所前はいわゆる「新弟子枯れ」の時期であり、検査が緩くなる傾向にあった。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た胃癌

    2010年に発覚した大相撲野球賭博問題では、弟子の雅山が野球賭博に関与したために特別調査委員会から謹慎処分を受け、本人もその監督責任として特別調査委員会から同年7月4日から25日までの謹慎を勧告されたため、村山弘義に謹慎期間中における理事長代行を委嘱した。同年7月19日には高血圧で入院していたことが判明し、その後も胃癌の手術を受けて理事長職への復帰の見通しが立たなかったため、当初の委嘱期間が終了して以降も村山がそのまま理事長代行を務めた。同年8月5日に理事長職へ復帰したものの、同年8月12日に行われた臨時理事会で正式に理事長辞任を表明し、後任には17代放駒親方(元大関・魁傑)が選出された。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見たGTO (1998年のテレビドラマ)

    長男の石山俊明は本名の「石山」を四股名として三段目まで昇進した元力士で、引退後は俳優として『GTO』や『暴れん坊将軍』に出演したことがある。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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