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  • 三重ノ海剛司

    三重ノ海剛司から見た寄り切り

    入門前の相撲経験が皆無であったこともあって大相撲入門後は二番出世で序二段に13場所も留まるなど出世は遅く、非力で体格にも恵まれていなかったために周囲から期待されおらず、8代出羽海は「1週間もしないうちに、嫌になって帰るだろうと思っていた」といい、1967年9月場所に三段目優勝を果たしてようやく部屋付の高崎から「三段目の優勝で初めておまえの存在を知った」と言われるほどであった。本人は初土俵同期の旭國が1年で幕下に上がるのを見て焦りを覚えたという。尤も、旭国は約1年見習として下積みしてから初土俵を踏んだため、旭國の出世が速かったのはある意味では当然である。序二段の最後に部屋の若者頭から四股名を自分で考えろと言われ(当時の出羽海部屋は所属力士の数が多かったため、親方は四股名を考えてくれなかった)、四股名「三重ノ海」を名乗るようになった。三重県には「海」があって、部屋名の「出羽海」にも「海」の字があり、それらから取った「海」の字に出身の「三重」の字を足した、というのが四股名の由来である。出身の三重を使った四股名では、当時部屋には三重ノ山や三重光がいたのでそれ以外となると、海が思い浮かぶということで「海」の字を採用したという。三段目優勝以降は幕下に定着し、先輩の一人が「三段目で優勝した力士のだいたいが関取になる場合が多いから」という言葉で気を良くして、更に稽古に励んだ。東幕下5枚目の地位で土俵に上がった1969年3月場所には5勝1敗ともう1勝すれば十両昇進は確実とされた7番相撲で当時十両であった廣川を寄り切り、場所後新十両へ昇進。新弟子時代からのライバルであった旭國と同時に十両昇進を果たした格好であった。実家に帰って報告したら母は泣いて喜んでくれた。新十両の頃、当時大関だった琴櫻が出稽古に来てたまたま自身が指名されたが、2番続けて勝ったため琴櫻はムキになってそこから三重ノ海は土俵に叩きつけられ転がされ、なすすべなしであった。同年9月場所には新入幕を果たした。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

  • 三重ノ海剛司

    三重ノ海剛司から見た竹刀

    部屋の指導者としては横綱・武蔵丸のほか、武双山・出島・雅山という3大関を含めた12人の関取を育て上げ、一時期は角界最多数の関取を擁して一時代を築いた。往年は稽古場において平気で竹刀を振るうスパルタぶりで知られていた反面、土俵外では明るく気さくな人物であったという。一方で書籍によっては「"喜怒哀楽"の"怒"の顔しか見せることのなかった『昭和のオヤジ』」と親方時代を評する声も掲載されている。協会員としては役員待遇・監事(現:副理事)・理事と出世していき、2006年2月からは事業部長を務めた。その後、大相撲力士大麻問題を始めとした不祥事が相次ぎ、その処遇を巡って北の湖理事長が辞任したことを受け、2008年9月8日に第10代日本相撲協会理事長に就任した。同年、前2007年の時津風部屋力士暴行死事件を受けてそれまで閉鎖的だった協会に外部役員を招聘し、2015年1月現在でも外部役員の招聘は継続されている。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た優勝決定戦 (相撲)

    1978年には2桁勝利を4度記録し、1979年5月場所では北の湖の連勝を32で止めたのを含めて13勝2敗という優勝次点の成績を挙げる。自身初の綱獲りとなった翌7月場所では、初日に栃赤城に敗れるが、ここで「これでもう、綱はないな。あとは2桁挙げられるように頑張ろう」と気持ちを切り替え、そこからは白星を重ねて14連勝。結果14勝1敗の成績を挙げて優勝決定戦まで進出し、輪島との優勝決定戦には敗れたものの、優勝同点の好成績を挙げたことで横綱に推挙され、当時31歳5か月の高齢という遅咲きながら翌9月場所において漸く横綱へ昇進した。2017年現在、関脇の地位へ陥落しながらも大関復帰を果たしその後横綱へ昇進した唯一の力士である。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た小結

    1970年7月場所には新三役となる西小結へ昇進し、大鵬・玉の海を破って初の殊勲賞を受賞した。その後も幕内上位に定着し、1971年11月場所には西小結の位置で11勝4敗の好成績を挙げて初の技能賞を受賞し、長谷川・貴ノ花・輪島・魁傑と共に大関候補として大いに期待され、これらの力士は三角大福にあやかって「貴輪三魁(きりんさんかい)」と呼ばれた。しかし、1972年から肝臓病が悪化して、1973年9月場所から1975年3月場所までは平幕に在位した。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た山科 (相撲)

    引退後は短期間だけ年寄・山科を襲名した後すぐに年寄・14代武蔵川を襲名し、1981年8月には出羽海部屋から分家独立して武蔵川部屋を創設した。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た俳優

    長男の石山俊明は本名の「石山」を四股名として三段目まで昇進した元力士で、引退後は俳優として『GTO』や『暴れん坊将軍』に出演したことがある。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た牛乳

    1948年に三重県松阪市で生まれる。幼少期は山で木を削って刀を作ったり、ターザンごっこしたり、寺で三角ベースをやったりしていた。野球も少ししていたが、特別好きなチームはなく、好きな選手はいなかった。運動神経は悪かったため、野球ではチームの足を引っ張っていた。父が建設関係の仕事をしていたころは普通の生活を送っていたが、父が病気で倒れてからは途端に貧しくなった。以来、ベルトを買う金もなく、母の腰巻の紐で代用していたほどの貧窮家庭に育った。小学4年生の頃から新聞配達を行い、6年生の頃からは中学生以上でないと行えない牛乳配達を年を偽って行った。中学時代は松阪駅近くの精肉店の配達のアルバイトも始め、仕事の終わりの銭湯と外食が楽しみであった。中学1年の時、石山と10歳以上年の離れた兄が出羽海部屋をひいきにしていた魚屋の大将に「うちの弟がそこそこ体が大きいから相撲取りにどうかな」と冗談半分で相談した。大将は興味を持って「それならちょっと(体を)見せてみろ」となり、石山は銭湯で体を見られた。まもなく名古屋場所が始まる時期で、その準備で出羽海部屋の部屋付き親方であった松ヶ根(元関脇・羽嶋山)が名古屋に来るから会わせてやる、と言われ、石山は相撲に全く興味はなかったが、言われるまま、松ヶ根が泊まる旅館に連れて行かれた。75kg以上と体重はあったが、身長が167cmぐらいで当時の新弟子検査の基準(173cm、75kg)に達していなかった。松ヶ根は「身長が伸びたら、また連絡でもしてこい」といい、結局、それで話はすぐに終わってしまった。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た角番

    ところが、新大関として迎えた1976年1月場所中、8勝7敗と勝ち越すも左足首を捻挫。その怪我の影響で続く3月場所と5月場所にそれぞれ途中休場したために2場所連続で負け越し、在位3場所目で大関の地位を明け渡してしまう。同年7月場所は関脇の地位へ陥落したが、その7月場所は関脇で10勝を挙げ、1場所で大関特例復帰を果たした。しかし、大関へ復活した1976年9月から1977年11月の8場所の間は、2桁勝利すら挙げられず大関角番を2回(通算3回)経験した。大関陥落から大関復帰までについては「成績を含め、大関として活躍しなければならないという気持ちが強すぎた」と語っており、復帰を懸けていた1976年7月場所は「家族にすら伝えてなかったけど、駄目なら引退しようとまで思った」という。また、不成績が続いていたことから「クンロク大関」「ハチナナ大関」とマスコミに揶揄されたこともある。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た十両

    入門前の相撲経験が皆無であったこともあって大相撲入門後は二番出世で序二段に13場所も留まるなど出世は遅く、非力で体格にも恵まれていなかったために周囲から期待されおらず、8代出羽海は「1週間もしないうちに、嫌になって帰るだろうと思っていた」といい、1967年9月場所に三段目優勝を果たしてようやく部屋付の高崎から「三段目の優勝で初めておまえの存在を知った」と言われるほどであった。本人は初土俵同期の旭國が1年で幕下に上がるのを見て焦りを覚えたという。尤も、旭国は約1年見習として下積みしてから初土俵を踏んだため、旭國の出世が速かったのはある意味では当然である。序二段の最後に部屋の若者頭から四股名を自分で考えろと言われ(当時の出羽海部屋は所属力士の数が多かったため、親方は四股名を考えてくれなかった)、四股名「三重ノ海」を名乗るようになった。三重県には「海」があって、部屋名の「出羽海」にも「海」の字があり、それらから取った「海」の字に出身の「三重」の字を足した、というのが四股名の由来である。出身の三重を使った四股名では、当時部屋には三重ノ山や三重光がいたのでそれ以外となると、海が思い浮かぶということで「海」の字を採用したという。三段目優勝以降は幕下に定着し、先輩の一人が「三段目で優勝した力士のだいたいが関取になる場合が多いから」という言葉で気を良くして、更に稽古に励んだ。東幕下5枚目の地位で土俵に上がった1969年3月場所には5勝1敗ともう1勝すれば十両昇進は確実とされた7番相撲で当時十両であった廣川を寄り切り、場所後新十両へ昇進。新弟子時代からのライバルであった旭國と同時に十両昇進を果たした格好であった。実家に帰って報告したら母は泣いて喜んでくれた。新十両の頃、当時大関だった琴櫻が出稽古に来てたまたま自身が指名されたが、2番続けて勝ったため琴櫻はムキになってそこから三重ノ海は土俵に叩きつけられ転がされ、なすすべなしであった。同年9月場所には新入幕を果たした。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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    三重ノ海剛司から見た新弟子検査

    1948年に三重県松阪市で生まれる。幼少期は山で木を削って刀を作ったり、ターザンごっこしたり、寺で三角ベースをやったりしていた。野球も少ししていたが、特別好きなチームはなく、好きな選手はいなかった。運動神経は悪かったため、野球ではチームの足を引っ張っていた。父が建設関係の仕事をしていたころは普通の生活を送っていたが、父が病気で倒れてからは途端に貧しくなった。以来、ベルトを買う金もなく、母の腰巻の紐で代用していたほどの貧窮家庭に育った。小学4年生の頃から新聞配達を行い、6年生の頃からは中学生以上でないと行えない牛乳配達を年を偽って行った。中学時代は松阪駅近くの精肉店の配達のアルバイトも始め、仕事の終わりの銭湯と外食が楽しみであった。中学1年の時、石山と10歳以上年の離れた兄が出羽海部屋をひいきにしていた魚屋の大将に「うちの弟がそこそこ体が大きいから相撲取りにどうかな」と冗談半分で相談した。大将は興味を持って「それならちょっと(体を)見せてみろ」となり、石山は銭湯で体を見られた。まもなく名古屋場所が始まる時期で、その準備で出羽海部屋の部屋付き親方であった松ヶ根(元関脇・羽嶋山)が名古屋に来るから会わせてやる、と言われ、石山は相撲に全く興味はなかったが、言われるまま、松ヶ根が泊まる旅館に連れて行かれた。75kg以上と体重はあったが、身長が167cmぐらいで当時の新弟子検査の基準(173cm、75kg)に達していなかった。松ヶ根は「身長が伸びたら、また連絡でもしてこい」といい、結局、それで話はすぐに終わってしまった。三重ノ海剛司 フレッシュアイペディアより)

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