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G・B・H (プロレス)から見た永田裕志
2006年10月2日に、天山が真壁、越中詩郎と結成し、同年10月14日に天山がユニット名をG・B・Hとする事を発表した。これを毒舌家の永田裕志は「ゴリラ(真壁のあだ名)・バッファロー(天山のあだ名)・ヒップ(越中の得意技)の頭文字だ」と発言した。(G・B・H (プロレス) フレッシュアイペディアより)
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テンコジから見た永田裕志
1993年のヤングライオン杯優勝後山本は海外武者修行に出発し、1995年に「天山広吉」とリングネームを改め凱旋。蝶野正洋・ヒロ斎藤と狼群団を結成するなど活躍する。その後狼群団はnWoジャパンへと発展し新メンバーとして武藤敬司が加入。武藤は蝶野のケガによる欠場中に当時新日本体所属だった小島をnWoジャパンに勧誘し小島もこれに同意し軍団入りする。しかし天山ら旧来からのメンバーはこれに反発し両者の間には軋轢が生じるが1998年のSGタッグリーグ公式戦の武藤&小島vs天山&nWoスティングの試合で戦いを通じて小島のことを理解し軍団入りを認める。そして翌1999年1月4日天山と小島はヤングライオン時代以来のタッグで天龍源一郎&越中詩郎組の保持するIWGPタッグ王座に挑戦しこれを奪取する。以後このベルトを巡り永田裕志&中西学組と抗争を展開し新日本のタッグ戦線を盛り上げる。2000年にはその活躍が認められプロレス大賞の最優秀タッグチーム賞を獲得した。(テンコジ フレッシュアイペディアより)
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成瀬昌由から見た永田裕志
総合格闘技では、フリー参戦の2001年から新日本選手の参戦に際し、その練習パートナーとして常に帯同。永田裕志、ケンドー・カシン、安田忠夫、獣神サンダー・ライガー、矢野通、ブルー・ウルフ、ジョシュ・バーネットといったメンバーの練習や本番のセコンドに就き、徹底したバックアップを行った。これは当時新日本にセコンドを務められる人材が非常に不足していたため、リングス時代の長い経験を持つ成瀬が多くセコンドに付いている。自らも、2003年12月31日のK-1 PREMIUM 2003 Dynamite!!でK-1の大巨人ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤと対戦。身長差38cm、体重差50kgのハンデをひっくり返し、チョークスリーパーで一本勝ちを納めている。なぜかこの時は同日参戦した新日本選手の中で唯一の勝利者であったにもかかわらずリングスのバスタオルを掲げていた。また、新日本プロレスの総合ルールULTIMATE CRASHルールの作成にも携わった。(成瀬昌由 フレッシュアイペディアより)
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佐々木健介から見た永田裕志
2002年11月、鈴木みのる戦を巡る交渉の過程で会社への不信感を理由に新日プロを退団(10月の東京ドーム大会寸前に退団を発表したため、「妨害行為」として藤波辰爾社長や永田裕志ら選手から激しい批判を浴びた)。移籍先は長州力を中心に設立されたプロレス団体WJプロレスであった。長州らによる放漫な団体運営や観客動員数の低迷による給料未払い、有力選手の離脱など困難の中、2003年7月WMG(ワールド・マグマ・ザ・グレーテスト、WJのシングルベルト)初代王者決定戦トーナメントに優勝、9月には『X-1』へ参戦する等奮闘するが、その甲斐も無くWJプロレスは崩壊、12月に退団した。(佐々木健介 フレッシュアイペディアより)
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柴田勝頼から見た永田裕志
中学時代は、バスケットボール部に所属。三重県立桑名工業高等学校時代は、「体を鍛えたい」という一心で、柔道かレスリングのどちらかを始めようとした結果、レスリング部に入部。このときに、後にプロレスラーとしてしのぎを削り、時には共闘することになる後藤洋央紀と初めて顔を合わせた。1997年全国高校生グレコローマン選手権81kg級に出場、2回戦で中邑真輔に敗れた。高校の恩師が永田裕志の後輩で、その恩師が四日市で新日本の試合がある時に石澤常光と一緒にレスリングの練習を見に来てくれるなど、プロレスラーと接触する機会があり、「これはかなわないな」と、ますますプロレスに傾倒。また、その頃のプロレス界はちょうど新日本とUWFインターの対抗戦が始まった頃であり、柴田は若手の闘いに魅力を感じた。(柴田勝頼 フレッシュアイペディアより)