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辻よしなりから見た永田裕志
ワールドプロレスリングの実況担当の際、プロレスラーとの確執を何度も経験している。当時nWoジャパンの総帥だった蝶野正洋に実況席を乗っ取られた上、暴言やメガネを壊される等の被害を受けたが、逃げずに口で応戦し立ち向かっていった。他にもnWo軍の試合前の放送席奇襲に遭い、辻のジャケットを脱がされワイシャツにスプレーで「NWO」と書かれメンバーにnWo軍入りを要請された際、頑として拒否していたが、それから1ヶ月後にはnWoTシャツを着て「nWoの辻義就です。」とあっさりnWo軍入りを表明した、その後試合実況でnWo軍に対し露骨な応援実況をした為に今度は新日正規軍に実況席を乗っ取られ、襲撃されるという憂き目に遭った。また、当時新日に所属していた吉江豊の試合実況の際、試合そっちのけでプライベートで酒癖の悪い一面を長々と話してしまい、後日吉江と当時「G-EGGS」で同胞の中西学と永田裕志らに吊るし上げをくらった場面を放送されたこともあった。しかし選手からの人望は厚く、蝶野らとは和解をしており、二人の対談本も発売している。後輩の真鍋由(当時テレビ朝日スポーツ担当)が大仁田厚に暴行を受けそうになった時も大人の対応で大仁田を咎めているが大仁田と真鍋のやりとりはその後、「大仁田劇場」としてますますエスカレートしている。(辻よしなり フレッシュアイペディアより)
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nWoジャパンから見た永田裕志
1998年に入り、藤波辰爾のIWGP王座取得や天龍源一郎の参戦→越中詩郎が当時率いていた平成維震軍との共闘により、標的を藤波や平成維震軍に向ける。武藤が膝の手術のため欠場しタッグ王座を返上することになるが、蝶野・天山組が新王者決定トーナメントで獲得に成功。しかし7月のシリーズでの初防衛戦で天龍・越中組に敗れ王座転落となってしまった。8月には蝶野がIWGPヘビー級王座の初戴冠に成功、第22代王者となった。しかし、翌月のシリーズの途中、蝶野が首の負傷により長期欠場をすることになってしまい、王座返上を余儀無くされたものの、同シリーズの最終戦で蝶野の初防衛戦の相手に指名されていたスコット・ノートンが当時海外遠征から帰国して間もない永田裕志との新王者決定戦で勝利した。(nWoジャパン フレッシュアイペディアより)
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ブライアン・ジョンストンから見た永田裕志
2001年8月19日、K-1で行われた藤田和之対ミルコ・クロコップ戦で藤田のセコンドについたが試合中に体調不良を起こしていたらしく、試合終了後に控え室で「彼の体調がおかしい」ことを試合終了後の選手が指摘したことにより、病院に入院して脳梗塞と判明。その後、リングに上がることがなかったことから永田裕志がファンに対してプロレスのインタビューで「ブライアンは元気。少し体に後遺症が出ているだけで普通に生活できている」とファンに伝えたこともあった。(ブライアン・ジョンストン フレッシュアイペディアより)
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プロレスリングZERO-ONEから見た永田裕志
2001年3月2日に両国国技館で開催したプロレスリングZERO‐ONEの旗揚げ戦では、「破壊なくして創造はなし、悪しき古きが滅せねば誕生もなし、時代を開く勇者たれ」との理念を掲げた。メインイベントは、それまでの日本のプロレス界の常識を超えるすさまじいものになった。橋本はこの日、新日本プロレスの永田裕志とタッグを組み、プロレスリング・ノアの三沢&秋山準組と対決した。この初顔合わせはファンの注目は、もちろんゲスト解説を務めた武藤ら他団体の選手達の注目までも集めた。試合は19分10秒に三沢がジャーマン・スープレックスからの片エビ固めで橋本からフォールを奪うが、ゴングが鳴った後も橋本は秋山を攻め続けたため、ZERO-ONE勢とノア勢の乱闘に発展した。だが、そこに観戦に訪れていた小川がマイクを持ってリングインし、橋本に「橋本!コラッ!だらしねぇ試合してんじゃねぇ!コノヤロー!」と絶叫、さらに小川は三沢に対しても、「三沢!受けてもらおうじゃねぇか!勝負を!」と怒鳴ったため、三沢が激怒して小川に殴りかかった。また、橋本の陣営に付いていた藤田和之までもがリングでマイクを持ち、「オイ!誰が一番強いか!ここで決めればいいんじゃねぇか!オイ!」と絶叫して、複雑な対立構図が完成してファンを大いに驚かせた。すると三沢がマイクで、「お前らのな、思う通りにはしねぇよ!絶対!」とリングを降りると、橋本が「三沢!三沢!思う通りにしてやるから憶えておけ!」とまとめた。結局、ZERO-ONEとノア、小川、藤田との対立構図はこの一夜のみの出来事であったが、その後、ノアの所属選手が新日本に参戦するなど、この試合を契機に団体間の垣根は急速に低くなり、プロレス界の交流がますます活発になった。(プロレスリングZERO-ONE フレッシュアイペディアより)