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諸九尼から見た江の島
俳諧紀行・撰集。諸九尼は京を出発し、奥の細道を体験するべく、大旅行をし代表作「秋かぜの記」を書いた。読者を意識したので、書いていない所もある。明和8年(1771年)3月晦日、京を出発。東海道、江戸、仙台を経由し、帰りは中山道経由で9月4日石山の記載で終わっている。その年は、飢饉も震災も無かったので、無事に旅を終えたと作家の金森敦子は書いている。従者は最初は二人で、元治郎という老僕と只言(しげん)という法師であった。当時は旅行も大変な時代で、厳しい関所などで、必ず迂回して間道をいった。金森は、一行は、あまり金子をもっていなかったので、法師が托鉢もしたのではないかと書いている。京を出発し、主な経由地は、石山寺、近江八幡、愛知川、高宮、垂井、名古屋、鳴海、岡崎、國府、新城、秋葉神社、神澤、掛川、藤枝、江尻、原、箱根関所、畑、小田原、大磯、江の島、鎌倉、神奈川、江戸、木下、香取神宮、小見川、野尻、鹿島、縦山、水戸、中の湊、額田、折端、棚倉、須賀川、二本松、福島、桑折、白川、仙台、松島、(帰路一部省略)白河、那須、日光、鹿沼、出流、桐生、前橋、原の町、大笹、保科、善光寺、姥捨、中窪、諏訪、飯田、妻籠、大久手、鵠沼、垂井(省略)京である。(諸九尼 フレッシュアイペディアより)
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青木熊吉から見た江の島
1875年、来日中のドイツの生物学者フランツ・ヒルゲンドルフ (Franz Hilgendorf) が江の島の土産物店で貝殻を購入し、帰国後にこれが新種であることを確認され、1877年に新種として学会で発表した。これを受けて大英博物館から東京帝国大学に、この貝の採集が依頼され、青木が一本釣りでその採集に成功した。当時としては大金の40円の賞金を受けた青木は、「長者になったようだ」といったとされ、ここから、この貝を「長者貝」と称するようになった。しかし、その後の調べで、1844年の武蔵石壽の著書『目八譜』に「オキナエビス」の名で記載があることが判明し、「オキナエビスガイ」が正式な名称となった。「長者貝」は異名として現在も用いられることがある。(青木熊吉 フレッシュアイペディアより)