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  • 江川卓 (野球)

    江川卓 (野球)から見た西本聖

    3年目のには、20勝6敗、防御率2.29、奪三振221で、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率(.769)、最多完封(7完封)という投手五冠王に輝き(日本プロ野球史上6人目、2リーグ分立後3人目)、チームを4年ぶりのリーグ優勝に導いた。MVPに選出されたものの、沢村賞は同僚の西本聖の受賞となった(当時の沢村賞は現在と異なりプロ野球担当の新聞記者による投票で決定されていた)。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た不二家

    不二家 ‐ 「ネクター」 (間下このみと共演)江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た小林繁

    1978年度ドラフト会議(11月22日開催)の2日前に急遽帰国した江川は、ドラフト会議前日の11月21日、(福岡野球から西武グループに譲渡されたライオンズの独占交渉権はドラフト会議前々日の11月20日をもって喪失したとの解釈で)巨人と電撃契約した(通称「空白の一日事件」)。セントラル・リーグ事務局は即時にこの契約を無効として江川の選手登録を却下したが、それに抗議した巨人は翌日のドラフト会議をボイコットした。当のドラフト会議では、巨人の抜け駆け契約に抗議する意味で南海、近鉄、ロッテ、阪神の4球団が江川を1位指名し、抽選の結果、阪神が江川との交渉権を獲得した。巨人は「全12球団が出席していないドラフト会議は無効である」と主張して、江川に対する阪神の交渉権を認めなかった。この問題はこじれにこじれたが、最終的に金子鋭コミッショナーの「強い要望」により、1月31日、江川は交渉権を持つ阪神と契約を結び、一旦阪神に入団した上で、同日中に小林繁を相手とする交換トレードによって巨人に移籍することになった。この一件により、江川に対する世間の風当たりは強くなり、一気に悪役に仕立て上げられる。マスコミは大挙して江川を批判すると同時に、小林を悲劇のヒーローとして報道した。この経緯から、「エガワる」(周囲をかえりみず強引に自分の意見を押し通すこと)という造語が流行語にまでなった。また、1960年代に子供が好きだった物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」をもじって、嫌いな物として「江川・ピーマン・北の湖」という呼び方が揶揄的になされた。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た長嶋茂雄

    シーズン終了後の球団納会では、長嶋茂雄の引退試合のコメント(「わが巨人軍は永久に不滅です」)をもじって「巨人軍選手会は永遠に不滅です」と最後の挨拶を行った。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た達川光男

    4月5日の準決勝は広島県代表の広島商(後年広島に入団する達川光男が在籍)と対決。広島商・迫田監督は、試合前、「他のチームのことは一切考えなかった。江川をいかに崩すか。それだけを頭に描いて選手を鍛えてきた」と語っている。試合では、広島商の全選手が高めの球には一切手を出さず、バッターボックスのホームベース寄りに立って内角の球を投げ難くさせるとともに、徹底してバットを短く持ち、外角低めの球に的を絞ってファウルを打つことにより、投球数を増やして江川の精神面を崩す作戦に出た。江川は8回を投げて(完投)、被安打2(ポテンヒットと内野安打)、毎回の11奪三振と、ほぼ完璧な投球だったが、5回までに104球を投げさせられている。広島商は5回裏2死後、四球で出塁の達川を2塁に置いて、エース・佃正樹(のち法大→三菱重工広島)が詰まりながらもチーム初安打となるライト前のポテンヒットを放ち、達川が生還、江川に140イニングぶりの失点を与えた。さらに、広島商は8回裏2死1・2塁からダブルスチールを敢行、これが小倉捕手の3塁悪送球を誘い、2塁走者の金光興二(のち法大→三菱重工広島→広島商監督→法大監督)がホームを踏んで2点目を奪った。この得点が決勝点となって、作新学院は1対2で敗れ、ベスト4で姿を消した。江川はこの大会で通算60奪三振を記録。1930年(昭和5年)選抜優勝の第一神港商・岸本正治の作った54奪三振の従来記録を43年ぶりに塗り替えた。60奪三振は現在でも選抜大会記録である。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た落合博満

    開幕からの2か月間は一軍昇格を自粛する。デビュー戦となった6月2日の対阪神戦では、敵将のドン・ブレイザー監督に球種を見抜かれ、リロイ・スタントン、若菜嘉晴、マイク・ラインバックに本塁打を浴びて敗戦投手。また、同月17日のプロ初勝利となった対広島戦では、試合中に鼻血を出すというハプニングで8回途中降板したが、その後は活躍を見せた。しかし、ルーキーイヤーの成績は9勝10敗の負け越しで、一桁の勝ち星に終わったことなどが影響し、13勝を挙げた藤沢公也(中日)に新人王をさらわれた。なお、4月17日の後楽園球場でのイースタンリーグ・ロッテ戦では、二軍の試合としては異例ともいえる三万人以上の観客が江川目当てに集まり、江川は自身より2歳年上でプロ入り同期のルーキー・落合博満と対戦したが、初回に中堅越えの先制タイムリー二塁打、3回にも左前のタイムリーを打たれた。江川は7月21日に横浜スタジアムで開催されたジュニアオールスターゲームにもオールイースタンのメンバーとして出場、3イニングを無安打4奪三振という見事な投球を見せたが、このときは勝ち越し本塁打を放った加倉一馬(西武)がMVPに選ばれ、江川は最優秀投手賞だった。この年のオフに地獄の伊東キャンプに参加する。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た広島東洋カープ

    4月5日の準決勝は広島県代表の広島商(後年広島に入団する達川光男が在籍)と対決。広島商・迫田監督は、試合前、「他のチームのことは一切考えなかった。江川をいかに崩すか。それだけを頭に描いて選手を鍛えてきた」と語っている。試合では、広島商の全選手が高めの球には一切手を出さず、バッターボックスのホームベース寄りに立って内角の球を投げ難くさせるとともに、徹底してバットを短く持ち、外角低めの球に的を絞ってファウルを打つことにより、投球数を増やして江川の精神面を崩す作戦に出た。江川は8回を投げて(完投)、被安打2(ポテンヒットと内野安打)、毎回の11奪三振と、ほぼ完璧な投球だったが、5回までに104球を投げさせられている。広島商は5回裏2死後、四球で出塁の達川を2塁に置いて、エース・佃正樹(のち法大→三菱重工広島)が詰まりながらもチーム初安打となるライト前のポテンヒットを放ち、達川が生還、江川に140イニングぶりの失点を与えた。さらに、広島商は8回裏2死1・2塁からダブルスチールを敢行、これが小倉捕手の3塁悪送球を誘い、2塁走者の金光興二(のち法大→三菱重工広島→広島商監督→法大監督)がホームを踏んで2点目を奪った。この得点が決勝点となって、作新学院は1対2で敗れ、ベスト4で姿を消した。江川はこの大会で通算60奪三振を記録。1930年(昭和5年)選抜優勝の第一神港商・岸本正治の作った54奪三振の従来記録を43年ぶりに塗り替えた。60奪三振は現在でも選抜大会記録である。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た日本テレビ放送網

    引退後は、1988年から現在まで、日本テレビの野球解説者に就任。1993年にはメガCD専用ソフト『江川卓のスーパーリーグCD』の開発にも関わり、1994年からは『スポーツうるぐす』のMC、1996年からは『THE・サンデー』のスポーツコメンテーターを務める。2017年現在は『Going!Sports&News』の日曜日メインコメンテーターとナイター中継、主に巨人主催試合の解説を担当している。ワイン好きで「ワインタレント」として知られ、ワインに関する著作があり、名誉ソムリエの資格も持っている。2003年春には法大野球部臨時コーチを務めた。2009年のヤクルト春季キャンプでは球界を代表するストッパーである五十嵐亮太の特別コーチを務め、2011年には千葉・鎌ケ谷で日本ハムの新人合同自主トレを視察、斎藤佑樹の投球を見て「北別府タイプになったら200勝近く勝つ」と分析した。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た黄桜

    巨人入団の際に小林繁に迷惑をかけたことに対して負い目を感じていた江川は、恨みの感情がありながら江川の気持ちを察していた小林とは、お互い避けるような形で引退後もほとんど会話がなかったが、2007年10月12日からオンエアされた黄桜のCMで江川と小林は対談という形で共演した1。リハーサルもなく撮影された中で、小林が、「しんどかったやろなぁ。俺もしんどかったけどな! 二人ともしんどかった」と江川に語りかけた。「この対談で初めてお互いのわだかまりが取れた」とのちに江川は語っている。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た中日ドラゴンズ

    その年の秋、第24回秋季関東地区大会栃木県予選では4試合に登板、30回を投げて2失点37奪三振で、防御率0.67。1回戦では、北関東高校球界で鈴木孝政(1972年のドラフト1位で中日に入団)、江川とともに速球投手三羽ガラスといわれた石田真(1972年のドラフト1位で阪急に入団)を擁する足利工と激突。7回まで両者譲らず0対0だったが、8回に作新学院が2点を先取。江川は8回に1死球を与えるも後続を打ち取り、ノーヒットノーランで足利工を下した。決勝の文星芸術大学附属高等学校戦では3安打11奪三振で完封勝ちし、栃木県大会優勝。つづく関東大会1回戦では前橋工を相手に先発。1回2死から4回まで10者連続奪三振で無安打無失点、フェアグランドへ打たれたのはセーフティーバントによる投ゴロだけという高校入学以来最高の出来と思われる投球を見せた。この日5番に入った江川はチームでただ一人2安打を放ち、打つほうでも気を吐いたが、5回表の打席で前橋工・小池投手より頭部死球を受け退場(そのまま入院)。5回裏に後続投手が打たれて敗退。優勝候補の一角とも呼び声高かった2年春の甲子園出場はならなかった。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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