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    江川卓 (野球)から見た玄岡正充

    1000奪三振:1984年9月9日、対ヤクルトスワローズ25回戦(後楽園球場)、2回表に玄岡正充から ※史上69人目江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見たリロイ・スタントン

    開幕からの2か月間は一軍昇格を自粛する。デビュー戦となった6月2日の対阪神戦では、敵将のドン・ブレイザー監督に球種を見抜かれ、リロイ・スタントン、若菜嘉晴、マイク・ラインバックに本塁打を浴びて敗戦投手。また、同月17日のプロ初勝利となった対広島戦では、試合中に鼻血を出すというハプニングで8回途中降板したが、その後は活躍を見せた。しかし、ルーキーイヤーの成績は9勝10敗の負け越しで、一桁の勝ち星に終わったことなどが影響し、13勝を挙げた藤沢公也(中日)に新人王をさらわれた。なお、4月17日の後楽園球場でのイースタンリーグ・ロッテ戦では、二軍の試合としては異例ともいえる三万人以上の観客が江川目当てに集まり、江川は自身より2歳年上でプロ入り同期のルーキー・落合博満と対戦したが、初回に中堅越えの先制タイムリー二塁打、3回にも左前のタイムリーを打たれた。江川は7月21日に横浜スタジアムで開催されたジュニアオールスターゲームにもオールイースタンのメンバーとして出場、3イニングを無安打4奪三振という見事な投球を見せたが、このときは勝ち越し本塁打を放った加倉一馬(西武)がMVPに選ばれ、江川は最優秀投手賞だった。この年のオフに地獄の伊東キャンプに参加する。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た長崎慶一

    現役引退は1987年の春頃に既に考えていたとのことで、5月には夫人に同年限りで引退する考えを打ち明けている。『たかが江川されど江川』によると、同年5月13日、後楽園球場での阪神戦で、8回まで完封ペースだったが、江川の法大の後輩・木戸克彦の代打として登場したプロ入り通算0安打の無名のルーキー・八木裕に100球目の投球をフルスイングで本塁打されたことにも大きなショックを受けたという。八木は同年オフ、江川の法大の先輩・長崎慶一の引退に伴い、江川も一時的に与えられた背番号3を与えられた。また、『巨人?阪神論』では、前年の1986年の時点で肩の痛みなどから引退を考えていたと述べ、入団初年に9勝で終わって以来、「一桁勝利で終わるようではプロ野球を続けちゃダメだ」と考えるようになり、1987年は13勝したものの来年はたぶん一桁になると思ったことも引退を決めた原因であると述べている。上記の小早川の本塁打については、その日はここ数年で一番調子のいい日で、肩の痛みもなく、これで空振りが取れれば来年もう一度二桁勝利が取れるという「賭け」として、キャッチャーは外角のサインを出していたが、敢えてそれを無視し、自ら完璧だと思って投げた勝負の内角ストレートを打たれたことで、その自信を失ったという。奇しくもこの年挙げた勝ち星は小林繁が引退した年と同じ13勝だった。ただし、江川の通算勝利数は小林の通算勝利数(139勝)より4勝下回る。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た中尾孝義

    1973年秋のドラフト会議(11月20日開催)で上田利治新監督率いる阪急ブレーブスから1位指名を受けるが、入団を拒否する。慶應義塾大学法学部政治学科を受験するも不合格だったため、法政大学法学部第二部法律学科に進んだ(のちに一部へ転籍)。江川が慶應義塾大学受験に失敗した事実はニュース速報として報じられ、大きな話題になった。江川は不合格について「日本史で、過去の出題傾向から明治以降を完全に捨ててかかったら、その年に限って近代史の問題が多く出題された」と分析している。一方で、「江川を入学させると裏口入学だと騒がれる」という思惑から「例年なら野球部セレクションによる加点があるはずが、この年に限って加点が行われなかった」という説もあり、実際、この年は堀場秀孝(一浪後慶大→プリンスホテル→広島)、中尾孝義(一浪後専大→プリンスホテル→中日)など慶大志望の他の有力選手の中にも不合格者が相次いだ。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た杉本清

    『スポーツうるぐす』では、GIシーズンになると杉本清(以前は高橋源一郎)と競馬の予想を行っていたが、あまり当たらなかった(対象レースのほとんどで予想を外した年もあった)。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見たクリス・スミス (内野手)

    大学卒業後は作新学院職員としてアメリカに留学。これは、大学から社会人野球チームに入団すると最低2年間はプロ野球入団が禁じられるため、社会人野球への選手登録をしないで翌年のプロ野球入団が可能な野球留学を選択したため。南カリフォルニア大学で練習し、実戦ではアラスカのサマーリーグにアンカレッジ所属として参加し2勝2敗。留学当時、クリス・スミス(のちヤクルト)がルームメイトで、江川にとって英語の先生役でもあった。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見たキン肉マン

    ゆでたまご原作のプロレス漫画『キン肉マン』の主人公「キン肉スグル」の名前は江川にちなんだものだといわれている。また、兄の「キン肉アタル(=キン肉マン・ソルジャー)」の名前も江川の実弟、中(あたる)に同じ。父母の名前も同じ。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た全国高等学校野球選手権大会

    4月3日の準々決勝では、秋季愛媛県大会優勝、四国地区大会でも優勝し、春の選抜でも優勝候補の一角であった今治西(愛媛)と激突した。この今治西に対して、速球、変化球ともに冴え、「怪物」ぶりを発揮した江川は7回2死まで1人のランナーも許さず14奪三振。完全試合の期待もあったが、その直後に中前打された。しかし、気持ちを切らさず8回・9回も6アウトを6者連続奪三振で締め、結局、8者連続を含む毎回の20奪三振で1安打完封と完璧に抑えた。この試合での8者連続奪三振は、1926年(大正15年)夏に和歌山中学・小川正太郎が達成した夏の大会記録(当時)に並ぶもので、春の大会としては史上最多記録。試合後のインタビューで今治西・矢野監督は、「選手にバットを短く持って当てていくように指示したが、どうしても打てなかった。もう一度対戦しても打てませんね。選手には内緒ですが、完全試合にならなくてホッとしましたよ」と語っている。ちなみに、この今治西はこの年の夏の甲子園にも出場し、ベスト4になっている。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見たフレッシュオールスターゲーム

    開幕からの2か月間は一軍昇格を自粛する。デビュー戦となった6月2日の対阪神戦では、敵将のドン・ブレイザー監督に球種を見抜かれ、リロイ・スタントン、若菜嘉晴、マイク・ラインバックに本塁打を浴びて敗戦投手。また、同月17日のプロ初勝利となった対広島戦では、試合中に鼻血を出すというハプニングで8回途中降板したが、その後は活躍を見せた。しかし、ルーキーイヤーの成績は9勝10敗の負け越しで、一桁の勝ち星に終わったことなどが影響し、13勝を挙げた藤沢公也(中日)に新人王をさらわれた。なお、4月17日の後楽園球場でのイースタンリーグ・ロッテ戦では、二軍の試合としては異例ともいえる三万人以上の観客が江川目当てに集まり、江川は自身より2歳年上でプロ入り同期のルーキー・落合博満と対戦したが、初回に中堅越えの先制タイムリー二塁打、3回にも左前のタイムリーを打たれた。江川は7月21日に横浜スタジアムで開催されたジュニアオールスターゲームにもオールイースタンのメンバーとして出場、3イニングを無安打4奪三振という見事な投球を見せたが、このときは勝ち越し本塁打を放った加倉一馬(西武)がMVPに選ばれ、江川は最優秀投手賞だった。この年のオフに地獄の伊東キャンプに参加する。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た福岡市

    法大4年生時の1977年秋のドラフト会議(11月22日開催)では、法大の大先輩・根本陸夫新監督率いるクラウンライターライオンズからドラフト1位指名を受けるが、入団を拒否。江川は当時福岡市を本拠地としていたクラウンに対し、福岡は遠隔地という理由で断った。このときのことをのちに江川は、「巨人がだめでも巨人と対戦でき、そして当時交際中だった(のちの)夫人が東京在住だったため、遠距離交際を避けられる在京セ・リーグ球団からの指名なら入団していただろう」と振り返っている。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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