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  • 江川卓 (野球)

    江川卓 (野球)から見た東京六大学野球連盟

    法政大学1年生の春から主力投手として東京六大学リーグ戦に登板。春季リーグ戦は3位に終わったが、直後の新人戦・慶大戦では3失点5奪三振で完投勝利(自身も4安打)し、優勝に貢献。さらに、その年の秋季リーグ戦でも史上最年少で投手のベストナインを受賞するなど主戦投手として活躍。明治神宮野球大会でも法大の準優勝に貢献した(決勝戦では中大・田村政雄と投げ合うも1本のソロ本塁打に泣き、9回12奪三振、0対1の完投敗戦)。から77年の法大4連覇(4回とも対戦校すべてから勝ち点を奪う完全優勝)にエース、ときには5番打者として貢献した。なかでも1976年秋季リーグでは、投手は野手と比較して打席に立つ回数が少ないにも関わらず規定打席に到達、38打数13安打で打率3割4分2厘(リーグ2位)、本塁打2本(リーグ2位)、打点10(リーグ1位)の好成績を挙げている。このときはもちろん法大の規定打席数以上の選手の中では3部門すべてにおいてトップであった。通算47勝は山中正竹(法大)の48勝に次ぐ史上2位。10月22日、対明大1回戦を5安打完封して47勝目を挙げた翌23日、リーグ最終戦の対明大2回戦に勝てば通算勝利で連盟タイ記録になったが、江川は「うちには投手は他にも沢山いますから」と、あっさり先発を鎗田英男に譲っている。通算17完封は連盟記録、ベストナインにも6度選ばれた。これは高田繁(明大→巨人)の7度に次いで、谷沢健一(早大→中日)の6度と並ぶ連盟2位の記録である。奪三振数(443個)も秋に当時早大4年生だった和田毅(476個)に更新されるまでは歴代最多だった。また、江川は2年生で第4回日米大学野球選手権大会日本代表、3年生で第5回日米大学野球選手権大会日本代表、4年生で第6回日米大学野球選手権大会日本代表に選出されたが、同学年で3年生時の全日本大学野球選手権大会準決勝で江川と投げ合った東海大・遠藤一彦(のち大洋)は一度も同代表に選出されず、江川に対して強烈なライバル意識を持ったことが設計士の道を諦めてプロ入りする方向転換の要因となった。なお、当時のチームメートには船木千代美(投手)がいる(のちにTDKの監督として都市対抗野球で東北勢初の優勝を果たす)。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た浅香唯

    カネボウ ‐ 「デバイス」 (浅香唯と共演、1989年)江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た間下このみ

    不二家 ‐ 「ネクター」 (間下このみと共演)江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た角盈男

    その年の日本シリーズ(対戦相手は日本ハム)では第1戦、第4戦、第6戦の3試合に先発。第1戦は6回を投げて自責点4の敗勢で降板、その後チームが同点に追いつき敗戦投手は免れたものの、9回裏にリリーフエースの角三男が打たれてチームはサヨナラ負けを喫した。中3日で登板した第4戦は2失点完投勝利。さらに中3日で登板した第6戦(第5戦が雨のため1日順延)も3失点完投勝利で優勝。レギュラーシーズンに続き胴上げ投手となり、巨人を8年ぶりの日本一へ導いた。このとき、9回裏2死後の最後の打者であった五十嵐信一の飛球がマウンド上に上がった際に、普段通り投手に代わって捕球しようとする野手を制してウィニングボールを捕ったことを思い出としている。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た木戸克彦

    現役引退は1987年の春頃に既に考えていたとのことで、5月には夫人に同年限りで引退する考えを打ち明けている。『たかが江川されど江川』によると、同年5月13日、後楽園球場での阪神戦で、8回まで完封ペースだったが、江川の法大の後輩・木戸克彦の代打として登場したプロ入り通算0安打の無名のルーキー・八木裕に100球目の投球をフルスイングで本塁打されたことにも大きなショックを受けたという。八木は同年オフ、江川の法大の先輩・長崎慶一の引退に伴い、江川も一時的に与えられた背番号3を与えられた。また、『巨人?阪神論』では、前年の1986年の時点で肩の痛みなどから引退を考えていたと述べ、入団初年に9勝で終わって以来、「一桁勝利で終わるようではプロ野球を続けちゃダメだ」と考えるようになり、1987年は13勝したものの来年はたぶん一桁になると思ったことも引退を決めた原因であると述べている。上記の小早川の本塁打については、その日はここ数年で一番調子のいい日で、肩の痛みもなく、これで空振りが取れれば来年もう一度二桁勝利が取れるという「賭け」として、キャッチャーは外角のサインを出していたが、敢えてそれを無視し、自ら完璧だと思って投げた勝負の内角ストレートを打たれたことで、その自信を失ったという。奇しくもこの年挙げた勝ち星は小林繁が引退した年と同じ13勝だった。ただし、江川の通算勝利数は小林の通算勝利数(139勝)より4勝下回る。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た岡崎郁

    2011年11月11日、2012年シーズンから江川を巨人ヘッドコーチに起用すべく招聘する案が渡邉恒雄球団会長によって進められていたことが、清武英利球団代表の記者会見で明らかになっているが、江川自身は球団側から正式な要請を受けていないとしており、仮にコーチの話を受けたとしても入団時の経緯もあり、この年のヘッドコーチである岡崎郁に迷惑を掛けられないので「受けないだろう」と江川は述べている。結果、岡崎はヘッドコーチ留任となり、江川の入閣は行われなかった(「清武の乱」参照)。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た渡邉恒雄

    2011年11月11日、2012年シーズンから江川を巨人ヘッドコーチに起用すべく招聘する案が渡邉恒雄球団会長によって進められていたことが、清武英利球団代表の記者会見で明らかになっているが、江川自身は球団側から正式な要請を受けていないとしており、仮にコーチの話を受けたとしても入団時の経緯もあり、この年のヘッドコーチである岡崎郁に迷惑を掛けられないので「受けないだろう」と江川は述べている。結果、岡崎はヘッドコーチ留任となり、江川の入閣は行われなかった(「清武の乱」参照)。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た清原和博

    1985年のシーズンオフに中国鍼治療で復肩した江川は、新ストライクゾーンが導入された翌は好調だった。だが、6月26日の対阪神戦で、7試合連続本塁打の日本タイ記録が掛かったバースに真っ向勝負を挑むも、最終打席で本塁打を許している。また、大阪球場で行われた7月20日のオールスターゲーム第2戦では4回からリリーフ登板、1死2塁で西武の高卒ルーキー・清原和博と初対決し(清原は代打で登場)、カウント2-1からストレートを投げて空振り三振に切って取った。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た江口寿史

    江口寿史の漫画『すすめ!パイレーツ』の登場人物で千葉パイレーツの投手「江原卓徳」は、江川と原辰徳をかけ合わせた名前であり、キャラクターの造形はクラウンにドラフトで指名された頃の江川に近かった。「どうして僕はこんな球団に入っちゃったんでしょうね!?」が口癖。なお、この作品にはのちに江川自身も登場している。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た中畑清

    幼い頃に父に背負われて散歩に出かけた際、背負われたまま崖の下を覗かされたことが原因で、極度の高所恐怖症となった。そのため妻が元客室乗務員でありながら飛行機嫌いであり、国内の移動はどんなに時間がかかってもいつも鉄道などを用いている(妻との馴れ初めは、江川が米国開催の日米大学野球選手権大会に出場するため、やむを得ず飛行機に乗っていて青くなっているところを、客室乗務員だった妻が親切にしてくれたことである)。かつて巨人の北海道遠征の取材で東京→盛岡→青森→函館→札幌と一日かけて陸路を乗り継ぎながら出かけたほか、宮崎キャンプの取材でも東京→博多→新八代→鹿児島中央と乗り継ぎ、車で宮崎入りするなど、時間がかかっても陸路移動にこだわっている。現役時はまだ青函トンネルが開通しておらず、チームの北海道遠征時は登板がある場合のみ飛行機を利用したが、自らの登板予定がないときはチームに帯同せず東京に残った(江川が引退した翌年、1988年に青函トンネル開通)。松山でのオールスターゲームを取材したときでも、松山→岡山→東京と乗り継いで帰京したために、翌朝の『ザ・サンデー』のエンディングで江川は既に松山を発ったとのフリップが出ていた(同行した女子アナは松山市内でゆっくり買い物をした後に飛行機で帰京し、江川より先に東京に到着した)。陸路がない沖縄へキャンプ取材する際も、時間に余裕があるときは鹿児島から24時間かけてフェリーで沖縄に移動するほどである。横浜DeNAベイスターズの春季キャンプの取材で沖縄に行った際、このときはさすがに飛行機には乗ったが、中畑清監督に「どうやって来たの? 潜水艦でも乗ってきたの?」といわれてしまい、名球会のハワイでの取材時にも長嶋茂雄から「江川さん、よく飛行機に乗れましたね」といわれたほどである。飛行機嫌いの一因には幼少時代の体験だけでなく、現役時代に発生した日本航空123便墜落事故も影響しているといわれている。この事故で同じ球界関係者である阪神タイガース・中埜肇球団社長も犠牲になっていたため、球界全体にも大きな衝撃を与えていた。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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