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  • 江川卓 (野球)

    江川卓 (野球)から見たサトウハチロー

    サトウハチロー「雨に散った江川投手」(詩) - 1973年の夏の甲子園・対銚子商業戦で、雨の中延長戦で押し出し四球により敗れた江川の姿を見て作られた。この詩の中でサトウは、自分は雨を愛したがこれからは雨に関する詩を作るのをやめるとうたった。サトウが亡くなる3か月ほど前のことである。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た慶元秀章

    3月27日、第1日目第1試合。初めて甲子園球場という全国区に登場した「怪物」江川に日本中の高校野球ファンが試合のテレビ放送を注目した。江川見たさと、開幕直後の地元北陽高校戦とあって甲子園球場は観客5万5千人の超満員となった。満を持して登場した江川は1回、剛速球全開で北陽の選手のバットに一度も触れさせず三者連続三振。続く2回も先頭打者に1球もボールに触れさせず三振。強打北陽高校打線の1番冠野から2番慶元(クラウン→西武→近鉄)、3番広瀬、4番藤田の北陽が誇る上位打線が1人もバットにボールをかすることすらできず、高校生の中で1人だけプロ野球選手が混じって試合が行われていると揶揄された、あまりの実力差を見せつけられ、甲子園球場は異様などよめきに包まれた。続く5番有田(近鉄)がこの試合23球目に初めてバットにボールを当てると(一塁スタンドへのファウル)、有田に対して超満員の観客から大きな拍手が巻き起こっている。初回先頭打者から4回2死までアウト11者連続三振、秋季大会で打率4割2分3本塁打21打点の成績を残した北陽一の強打者4番藤田からは4打席4奪三振(すべてスイングアウトでの三振)、最終9回も2番慶元からの好打順に対して3者連続三振で締め、結局、この試合4安打19奪三振完封と鮮烈な甲子園デビューを飾った。試合後のインタビューで北陽・高橋監督は「生徒にはまっすぐを狙わしたが、スピードがありすぎてバットに当たろうともしなかった。途中から作戦をかえて、短打打法に切り替えたが、全くだめだった。」と語っている。(ちなみに、この北陽高校はこの年の夏の甲子園にも出場し、ベスト8になっている。)大会前から豪腕と騒がれたが、初めて全国に姿を現した「怪物」の実力に多くの高校野球ファンが驚嘆し、この試合を契機にこの大会が江川大フィーバーに包まれた。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た小川正太郎

    4月3日、準々決勝では、秋季大会愛媛県大会優勝、四国地区大会でも優勝し、春の大会でも優勝候補の一角であった今治西(愛媛)と激突した。(ちなみに、この今治西はこの年の夏の甲子園にも出場し、ベスト4になっている。)この今治西に対して、速球、変化球ともに冴え、「怪物」ぶりを発揮した江川は7回2死まで1人のランナーも許さず14奪三振。完全試合の期待もあったが、その直後に中前打された。しかし、気持ちを切らさず8回9回もアウト6者連続三振で締め、結局、8連続を含む毎回の20奪三振で1安打完封と完璧に抑えた。この試合で8連続奪三振は1926年(大正15年)夏の和歌山中学・小川正太郎の記録に並ぶ大会記録。試合後のインタビューで今治西・矢野監督は「選手にバットを短く持って当てていくように指示したが、どうしても打てなかった。もう1度対戦しても打てませんね。選手には内緒ですが、完全試合にならなくてホッとしましたよ。」と語っている。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た亀岡偉民

    江川の球速は、高校時代にすでにピークを迎えていたとも言われ、当時スピードガンはまだなかったが、150km/hを超えていたのではないかと推定されている(プロ入り後は8月30日に153km/hを記録している)。その球威は「本気で投げると捕手が球を捕れなかった・・・」「打者がファウルするだけで歓声が沸いた・・・」などの伝説を生んでいる。ちなみに、高校時代バッテリーを組んだ捕手は小倉偉民(現・衆議院議員)。また、高校時代の江川が投じるきれいにスピンがかかった球筋は、数字以上の速さを感じさせていた。スピンが多くかかっているのは、なるべく球離れを遅くしてスピンをかけるように本人が努力したため。ただし、投手としては指が短めだったこともその理由である。指が短めだったことは、スピンをかけるには有利だったが、フォークボールなどの変化球を投げるのには適さなかった。そのため、プロ入りまで変化球はカーブしか投げられなかった。基本的には速球投手であり、落合博満は最後の速球派投手だと高く評価している。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た黒澤久雄

    現役引退の年、自宅に近い横浜市緑区霧が丘に喫茶店「きりんこ」を開店した。元々は巨人で打撃投手をしていた同僚が転職を考えているという話を聞き、その支援目的で当時近所に住んでいた黒澤久雄や羽川豊らと共同で出資したのがオープンのきっかけだという。しかし、住宅地で回りにほとんど店が無いこと、すぐ隣に老舗の喫茶店があったことなどから、数年で閉店。現在は駐車場となっており、建物の遺構の一部が駐車場の壁として残っている。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た土屋正勝

    2回戦で銚子商(千葉)と対戦。栃木県予選のチーム打率は.204と、およそ県予選の優勝校らしからぬ"低打率"の作新学院打線は好投手・土屋正勝からも点が取れず、0対0のまま、延長戦に突入。試合途中から降り出した雨でボールがすべり、江川の制球がままならない。12回裏1死満塁のピンチを招いてカウント2-3という場面、滑り止めをしのばせる右のポケットに手を入れながら、内野手全員をマウンドに集めている。「ストレート1本で勝負」という確認をして投じた169球目は明らかに高く外れるボールで押し出し四球を与えてサヨナラ負けになり、江川にとっての甲子園は幕を下ろした。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た松鶴家千代若・千代菊

    大正製薬 - 「メンフラハップ」(同郷の松鶴家千代若と共演)江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た水野雄仁

    プロ野球人生最後の登板となった、西武ライオンズとの日本シリーズにおいては、第3戦に先発として登板。好投を見せるも打線がそれに応えることができず、石毛宏典とJ・ブコビッチに本塁打を打たれ、8回2失点(9回は水野雄仁が登板)で敗戦。チーム自体も相手の組織力と隙のない野球のまえに完敗を喫し、最後の花道を飾ることはできなかった。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た和田毅

    慶大受験に失敗した江川は、法政大学法学部二部法律学科へ進み(後に一部へ転籍)、1年生時に東京六大学史上最年少ベストナインを受賞するなど主戦投手として活躍。からの法大4連覇(4回とも対戦校すべてから勝ち点を奪う完全優勝)にエース、ときには5番打者として貢献した。中でも1976年秋季リーグでは、打席数が野手と比較して少ないにもかかわらず、38打数13安打、打率3割4分2厘(リーグ2位)、本塁打2本(同2位)、打点10(同1位)の好成績をあげている。このときはもちろん法政の規定打数以上の選手の中では3部門においてトップである。通算47勝は山中正竹の48勝に次ぐ史上2位。1977年10月22日、対明大1回戦を5安打完封し47勝目を挙げた翌23日、リーグ最終戦の対明大2回戦に勝てば通算勝利で東京六大学タイ記録になったが、江川は「うちには投手は他にも沢山いますから」と、あっさり登板を鎗田に譲っている。完封数17はリーグ記録、ベストナインにも6度選ばれた。これは高田繁(明大→巨人)の7度に次いで、谷沢健一(早大→中日)の6度と並ぶ2位の記録である。奪三振数(443個)もに当時早大4年生だった和田毅に更新されるまでは歴代最多だった。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た玄岡正充

    1000奪三振:1984年9月9日、対ヤクルトスワローズ25回戦(後楽園球場)、2回表に玄岡正充から ※史上69人目江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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