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    江川卓 (野球)から見た大石大二郎

    は、ナゴヤ球場で行われたオールスターゲーム第3戦で捕手・中尾孝義(中日)とバッテリーを組み、8者連続奪三振を記録。このとき5人目の打者として対戦した落合博満(ロッテ)は、「球は現役投手で一番速い。なぜこれほどの投手が打たれるのかわからない」と述懐している。しかし、9人目に迎えた打者・大石大二郎(近鉄)への3球目にカーブを投げてバットに当てられてしまい、二塁ゴロとなり、1971年第1戦の江夏豊(阪神)に並ぶ9者連続奪三振はならなかった。同年9月16日の対広島戦(広島市民球場)では、先発して延長11回まで0点に抑えたが、12回裏1死無走者、打者・長嶋清幸の場面で158球目を打たれ、これが生涯初の被サヨナラ本塁打となり、自責点1の完投負けを喫した。しかしながら、同年のシーズンも通算2度目のリーグ最高勝率(.750)と通算4度目のリーグ最多完封を記録した。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た西村欣也

    『たかが江川されど江川』(江川卓・玉置肇・永瀬郷太郎・西村欣也共著、新潮社、1988年) ISBN 4103703016江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見たドン・ブラッシンゲーム

    開幕からの2か月間は一軍昇格を自粛する。デビュー戦となった6月2日の対阪神戦では、敵将のドン・ブレイザー監督に球種を見抜かれ、リロイ・スタントン、若菜嘉晴、マイク・ラインバックに本塁打を浴びて敗戦投手。また、同月17日のプロ初勝利となった対広島戦では、試合中に鼻血を出すというハプニングで8回途中降板したが、その後は活躍を見せた。しかし、ルーキーイヤーの成績は9勝10敗の負け越しで、一桁の勝ち星に終わったことなどが影響し、13勝を挙げた藤沢公也(中日)に新人王をさらわれた。なお、4月17日の後楽園球場でのイースタンリーグ・ロッテ戦では、二軍の試合としては異例ともいえる三万人以上の観客が江川目当てに集まり、江川は自身より2歳年上でプロ入り同期のルーキー・落合博満と対戦したが、初回に中堅越えの先制タイムリー二塁打、3回にも左前のタイムリーを打たれた。江川は7月21日に横浜スタジアムで開催されたジュニアオールスターゲームにもオールイースタンのメンバーとして出場、3イニングを無安打4奪三振という見事な投球を見せたが、このときは勝ち越し本塁打を放った加倉一馬(西武)がMVPに選ばれ、江川は最優秀投手賞だった。この年のオフに地獄の伊東キャンプに参加する。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た藤田元司

    また、同年の西武との日本シリーズでは、シリーズ直前に右足ふくらはぎの肉離れを起こしていたため精彩を欠き、第1戦、第6戦で敗戦投手となり、第4戦でも江川自身に勝ち負けは付かなかったがチームは敗戦した。同年オフ、堀内恒夫の現役引退に伴い、藤田元司と堀内が背負った背番号18への変更を打診されたが固辞している。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た山中正竹

    法政大学1年生の春から主力投手として東京六大学リーグ戦に登板。春季リーグ戦は3位に終わったが、直後の新人戦・慶大戦では3失点5奪三振で完投勝利(自身も4安打)し、優勝に貢献。さらに、その年の秋季リーグ戦でも史上最年少で投手のベストナインを受賞するなど主戦投手として活躍。明治神宮野球大会でも法大の準優勝に貢献した(決勝戦では中大・田村政雄と投げ合うも1本のソロ本塁打に泣き、9回12奪三振、0対1の完投敗戦)。から77年の法大4連覇(4回とも対戦校すべてから勝ち点を奪う完全優勝)にエース、ときには5番打者として貢献した。なかでも1976年秋季リーグでは、投手は野手と比較して打席に立つ回数が少ないにも関わらず規定打席に到達、38打数13安打で打率3割4分2厘(リーグ2位)、本塁打2本(リーグ2位)、打点10(リーグ1位)の好成績を挙げている。このときはもちろん法大の規定打席数以上の選手の中では3部門すべてにおいてトップであった。通算47勝は山中正竹(法大)の48勝に次ぐ史上2位。10月22日、対明大1回戦を5安打完封して47勝目を挙げた翌23日、リーグ最終戦の対明大2回戦に勝てば通算勝利で連盟タイ記録になったが、江川は「うちには投手は他にも沢山いますから」と、あっさり先発を鎗田英男に譲っている。通算17完封は連盟記録、ベストナインにも6度選ばれた。これは高田繁(明大→巨人)の7度に次いで、谷沢健一(早大→中日)の6度と並ぶ連盟2位の記録である。奪三振数(443個)も秋に当時早大4年生だった和田毅(476個)に更新されるまでは歴代最多だった。また、江川は2年生で第4回日米大学野球選手権大会日本代表、3年生で第5回日米大学野球選手権大会日本代表、4年生で第6回日米大学野球選手権大会日本代表に選出されたが、同学年で3年生時の全日本大学野球選手権大会準決勝で江川と投げ合った東海大・遠藤一彦(のち大洋)は一度も同代表に選出されず、江川に対して強烈なライバル意識を持ったことが設計士の道を諦めてプロ入りする方向転換の要因となった。なお、当時のチームメートには船木千代美(投手)がいる(のちにTDKの監督として都市対抗野球で東北勢初の優勝を果たす)。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た五十嵐信一

    その年の日本シリーズ(対戦相手は日本ハム)では第1戦、第4戦、第6戦の3試合に先発。第1戦は6回を投げて自責点4の敗勢で降板、その後チームが同点に追いつき敗戦投手は免れたものの、9回裏にリリーフエースの角三男が打たれてチームはサヨナラ負けを喫した。中3日で登板した第4戦は2失点完投勝利。さらに中3日で登板した第6戦(第5戦が雨のため1日順延)も3失点完投勝利で優勝。レギュラーシーズンに続き胴上げ投手となり、巨人を8年ぶりの日本一へ導いた。このとき、9回裏2死後の最後の打者であった五十嵐信一の飛球がマウンド上に上がった際に、普段通り投手に代わって捕球しようとする野手を制してウィニングボールを捕ったことを思い出としている。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た中埜肇 (実業家)

    幼い頃に父に背負われて散歩に出かけた際、背負われたまま崖の下を覗かされたことが原因で、極度の高所恐怖症となった。そのため妻が元客室乗務員でありながら飛行機嫌いであり、国内の移動はどんなに時間がかかってもいつも鉄道などを用いている(妻との馴れ初めは、江川が米国開催の日米大学野球選手権大会に出場するため、やむを得ず飛行機に乗っていて青くなっているところを、客室乗務員だった妻が親切にしてくれたことである)。かつて巨人の北海道遠征の取材で東京→盛岡→青森→函館→札幌と一日かけて陸路を乗り継ぎながら出かけたほか、宮崎キャンプの取材でも東京→博多→新八代→鹿児島中央と乗り継ぎ、車で宮崎入りするなど、時間がかかっても陸路移動にこだわっている。現役時はまだ青函トンネルが開通しておらず、チームの北海道遠征時は登板がある場合のみ飛行機を利用したが、自らの登板予定がないときはチームに帯同せず東京に残った(江川が引退した翌年、1988年に青函トンネル開通)。松山でのオールスターゲームを取材したときでも、松山→岡山→東京と乗り継いで帰京したために、翌朝の『ザ・サンデー』のエンディングで江川は既に松山を発ったとのフリップが出ていた(同行した女子アナは松山市内でゆっくり買い物をした後に飛行機で帰京し、江川より先に東京に到着した)。陸路がない沖縄へキャンプ取材する際も、時間に余裕があるときは鹿児島から24時間かけてフェリーで沖縄に移動するほどである。横浜DeNAベイスターズの春季キャンプの取材で沖縄に行った際、このときはさすがに飛行機には乗ったが、中畑清監督に「どうやって来たの? 潜水艦でも乗ってきたの?」といわれてしまい、名球会のハワイでの取材時にも長嶋茂雄から「江川さん、よく飛行機に乗れましたね」といわれたほどである。飛行機嫌いの一因には幼少時代の体験だけでなく、現役時代に発生した日本航空123便墜落事故も影響しているといわれている。この事故で同じ球界関係者である阪神タイガース・中埜肇球団社長も犠牲になっていたため、球界全体にも大きな衝撃を与えていた。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た小川光明

    耳をすませば (スタジオジブリ) ‐ プロ野球解説者役の声優として出演。なお、実況アナウンサー役は小川光明江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見た金光興二

    4月5日の準決勝は広島県代表の広島商(後年広島に入団する達川光男が在籍)と対決。広島商・迫田監督は、試合前、「他のチームのことは一切考えなかった。江川をいかに崩すか。それだけを頭に描いて選手を鍛えてきた」と語っている。試合では、広島商の全選手が高めの球には一切手を出さず、バッターボックスのホームベース寄りに立って内角の球を投げ難くさせるとともに、徹底してバットを短く持ち、外角低めの球に的を絞ってファウルを打つことにより、投球数を増やして江川の精神面を崩す作戦に出た。江川は8回を投げて(完投)、被安打2(ポテンヒットと内野安打)、毎回の11奪三振と、ほぼ完璧な投球だったが、5回までに104球を投げさせられている。広島商は5回裏2死後、四球で出塁の達川を2塁に置いて、エース・佃正樹(のち法大→三菱重工広島)が詰まりながらもチーム初安打となるライト前のポテンヒットを放ち、達川が生還、江川に140イニングぶりの失点を与えた。さらに、広島商は8回裏2死1・2塁からダブルスチールを敢行、これが小倉捕手の3塁悪送球を誘い、2塁走者の金光興二(のち法大→三菱重工広島→広島商監督→法大監督)がホームを踏んで2点目を奪った。この得点が決勝点となって、作新学院は1対2で敗れ、ベスト4で姿を消した。江川はこの大会で通算60奪三振を記録。1930年(昭和5年)選抜優勝の第一神港商・岸本正治の作った54奪三振の従来記録を43年ぶりに塗り替えた。60奪三振は現在でも選抜大会記録である。江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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    江川卓 (野球)から見たサトウハチロー

    詩 「雨に散った江川投手」 (作:サトウハチロー江川卓 (野球) フレッシュアイペディアより)

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